君の傍まであと一秒

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『営業の鈴村(すずむら)さん、ご結婚されてますか?って尋ねるとはぐらかしてくるけど。あれ、どう見ても結婚してるわ。少なくとも彼女と同棲してるのは確実ね』  彼が女性たちに人気であればあるほど、その口さがない噂は耳に入ってくるというものだ。営業部で鈴村、という苗字を持つ人間は私の知る限りで克樹一人しかいない。 『プライベートのこと全然話さないからわかりづらいけどさ。この間、田舎の親と電話してるっぽい現場見ちゃったのよー。そしたらやたら“カスミさん”って名前が出てくるわけ。いかにカスミさん、が素晴らしい女性なのか親御さんにアピールしてるみたいなかんじで……ありゃどう見ても、ねえ』 『うっそ、ショックー。狙ってたのに。まあ、鈴村さんも三十手前だから結婚しててもおかしくないんだろうけどさあ』 『そうだよね。いっそ不倫でもいいからお近づきになりたーい』 『やっだ、真澄、あんたそういうの堂々と言っちゃう?レディコミとか読みすぎじゃない?』  そんな話を、何度も耳にしてしまえば。ああやっぱり、と思うしかないのだ。彼は二十九、自分は三十二。彼が既婚者でも、なんらおかしくはない。 ――ってことは。いつか、選ばなくちゃいけないのか。別れるか、奥さんから克樹さんをぶんどるか。  どちらも本当は嫌だ、なんて。だからどちらかを突きつけられるかもしれない質問なんかできない、なんて。我ながら弱くなったものである。学生時代は不良じみたこともしてたし、下級生には怖がられるタイプの姉御キャラで通っていたというのに。  恋は人を強くする、なんて誰が言った。考えれば考えるほど苦しくて恐ろしくて、今まで築いてきた自分の価値感さえ壊してしまうほど駄目にしてくれるではないか。不倫なんか絶対いけない。本気でそう思うなら、自分の方から別れを切り出すべきであったのに。 ――それで結局、こんな日を迎えるんだから。  彼が奥さんと別れる気配はないばかりか、溺愛しているっぽい会話がちょこちょこ聞こえてくる始末。それで、こんなあからさまなレストランに“話がある”なんて呼び出されてみれば、そりゃ用件など一つしかないだろう。  最後に良い思い出を作って別れよう、という魂胆だ。  まったく、ムシがいいにもほどがある。 ――私だって、本当は愛人なんかなりたくなかった。普通に、正面切っての恋愛がしたかったのに。 「ごめんなさい、長くなってしまって」  はっと気づいた時、彼が席に座るところだった。どうやら電話が終わって戻ってきたところらしい。私は無理やり気持ちを切り替えて、彼の顔を見た。ここ連日残業が多かったせいだろう、随分疲れているように見える。まあ、自分の精神的疲労もあんたのせいで限界だと言ってやりたいところだが。 「……別に、いいけど」  このまま。食事の後まで、用件を引っ張られるのは御免だった。この人は時々、恐ろしい間での優柔不断を発揮する。さっさとこちらから吹っかけた方がいいだろう。どうせ、先に話しても後で話されても、ろくに食事の味なんてわからないのだろうから。
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