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君の傍まであと一秒
馬鹿なことしたなあ、と私はぼんやりと思った。
彼、克樹さんが私を呼びだしたのは、私のような一般OLでは少々贅沢すぎるような高級レストランだった。窓の向こうには、キラキラ星をちりばめたような夜景。そして二人席だというのに、薄ピンクのテーブルクロスがかかった四角いテーブルは大きすぎる。恐らくコース料理をたくさん乗せられるように、ということだろう。ただ、その配慮が少々、向かい側の人との距離を遠くしていることに気づいているのかどうか。
声も聴こえる。顔も見える。しかし、その手が届くかどうかは怪しい。なんとも寂しい距離だと思った。まるで、今の私と彼のようではないか。
――何を、今更。
ふふ、と自嘲気味に笑う。今、克樹本人は席にいない。緊急で仕事の電話が入ってしまい、一時的に席を外しているのだった。この時期の営業マンは忙しい。同じ会社に勤務している以上、私も社内が繁忙期に近づいているのをよくわかっている。こればっかりは責められなかった。むしろ、心の準備をする時間ができただけ良かったと思うほどだ。
話があるから、●●レストランできちんとした食事をしよう。そう言われた時、ああついにこの時が来てしまったのだ、と実感した。呼ばれたレストランは想像以上に高級っぽくて、少々奮発したなと思ったけれどそれだけだ。
きっと味なんか分からないだろう。これからされる話を前にしては、どんなに美味しい料理なんて無意味になってしまうに決まっているのだから。
そう。
別れ話を、切り出されるとあっては。
――馬鹿だな、私。最初から、こんな日がいつか来るだろうって分かってたのにね。
自分がもう少し若い頃は、不倫なんて良識のないニンゲンがするものだとばかり思っていた。不倫する男も、不倫する女にも共感できない。何で、一生に一人と決めた伴侶が既にいるのに、他の女や男とこっそり会ってデートしたり、ベッドに連れ込んだりなんて愚かな真似ができるのか。出張に行くなんて嘘をついたところで、その頻度が増えればおかしいと思われるに決まっている。会社の状況を他で知る手段があれば、ますます疑われるのは明白だ。
残業だとか、友達のところに宿泊するとか、そういうのも全部。そもそも、好きで結婚したはずの相手の心が己から離れていっていることに、まったく気づかないほど鈍いヤツはそうそういない。一度の浮気なら許される、バレなければ許される、そんなことあるわけがない。いつかはバレるし、そもそも浮気をして夫や妻に罪悪感がなく、己を正当化できる時点で人間として終わっているではないか。
そう、自分は将来どんな恋をしても、けして世間様に顔向けできないような恋愛などしてはならないと思っていた。私によく似て、すぐ人にハグをするリアクションの激しい母は(ちなみに、母はアメリカ人で、私は日本人の父とのハーフだったりする)、幼い頃から私に口が酸っぱくなるほど言い聞かせてきたのだった。
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