2.ヒトは愛でできている

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2.ヒトは愛でできている

   あたしはメンズセレクトを取り出して、自分の部屋のベッドの上で広げた。  何回見たら、気が済むんだ。  いや、しょうがないじゃん。  だって恋だから。  恋だから、と思っただけで顔が緩んで、でれでれしてしまう自分に驚愕(きょうがく)。  あたしってこんなキャラだったっけ?  メンズセレクトを持ったまま、足をバタバタさせる。  イドハルってこんな顔をしていたんだ、と思いながら雑誌に載った写真をまじまじと見ながら、にやにや笑いが止まらない。  キラキラ光る糸が織り込んであるダークグレーのシャツに黒い細身のパンツ、あるいは赤いシャツを肩にひっかけての短パン姿、どれも当然おしゃれで別人みたいだ。  制服姿のイドハルは思い出そうとしても思い出せないのに、写真を見ていると「こんな目で見つめられたら」なんて妄想を抱いてきゅわんとなっている。  この人が明日、学校に行ったらいるなんて変な感じ。  イドハルのことなんてまるで気にしていなかった昨日までのあたしには、もう戻れない。  明日、絶対にイドハルを見よう。  見てこの気持ちを確かめよう。  強く決心して、ベッドに入った。  いや、決心なんかしなくても見るけどね、絶対。  ふふふふふ。  にんまりしてくる口元に「やだな、あたしけっこう単純」とうれしくなる。  恋って素敵。  ちょっとしたことでもハイな気分になれる。  うきうきどきどき楽しいなあ、イドハル見て目があったらどうしよう、たいていの女子が考えそうなことを思って「あたしって普通に女の子だわ。恋の力ってすごっ」なんてぐるぐる考えて、全然眠れやしない。  などと思った割に、次に目を開けたらきっちり明るい朝になっていて、じりりと暑い日差しに夏の気配を感じたあたしは、今年初の制汗デオドランドを吹き付けさわやかな香りを身にまとい学校へ向かった。  匂いに気付かれるほどイドハルに接近する予定はないが、一応、乙女の身だしなみとして、と言い訳しつつも廊下ですれ違うかも、という期待に胸が膨れる。  見慣れたいつもの校舎もイドハルに会えるという可能性を秘めたうれしい場所に見える。  乙女心マジック。 「うれしい予感」に口元が緩む。  あわてて口元をひきしめて何もありませんよという顔を作っても、イドハルに会えると思ったらやっぱり頬がゆるむ。  つまりあちこちゆるみっぱなし。  ゆるんでひきしめてゆるんでひきしめてを繰り返し、ようやく校舎にたどりつくと心拍数があがった。    どこにいる?  どこで会える?  やたらきょろきょろしてしまうあたしはすっかり挙動不審者。  下駄箱、階段、教室に近づくにつれて自然に手が胸のあたりを押さえ、手のひらにダイレクトに伝わる心拍数を感じ「あーん、どうしよう」なんて階段を昇りながらひとり言が出てしまう。  一年五組、イドハルのいるクラス。  さあ、五組の教室が見えてきた。  いざ勝負。  素早く目を教室中に走らせる。  男子男子男子、あれはちがう、これもちがう、どこ? イドハルはどこにいるの?   必死で探すあたしの目は前後左右すごい速さで動いていたことだろう。 いた。  窓際から二列目後ろから三番目、自分の席に座って頬杖をついて、もう片方の手は机の上にだらんと伸ばしたままぼおっとしている姿が、その周囲だけ切り取ったみたいに不思議にくっきり見えた。  いたいたいた、本物本物、立ち止まって身を乗り出して見たいけどまさかそんなこともできないから、横目で観察してすいと通り過ぎ、自分の教室に入る。  いつもと同じ、普通の顔を装いながらも身体の真ん中から立体化したショッキングピンクのハートがどこんどこん、音をたてて飛び出してきそう。  はやいはやい、コンマ一秒で恋はすとんとあたしの胸の中におちてきた。  イドハルがモデルであろうとなかろうともう関係ない。  きっかけは雑誌の写真だったけれど、今のあたしは目の端でイドハルの姿を捉えただけでうれしい。  頭で考えなくても、あたしの目は勝手にイドハルを追いかけ始めている。  自分が歩くたび、五組が集団で教室を移動するたび、あたしは目を凝らしてイドハルを探す。  昨日まで、何も気にしていなかった、目に入っていなかった彼の姿が、こんなにも目にとびこんでくるようになったことにあたしは驚く。  すごい。  もうあたし、昨日までのあたしとは違う、すっかりイドハル仕様になっちゃってる。  やっぱ、恋だ。  現実の、井戸出川晴壱に、恋。  話したこともない、まだよく知らないイドハルの、どこにひかれたのだろう。  でもイドハルが気になることはたしかで、目で追ってしまうことも本当で、何を考えているのかよくわからない暗い目を真正面からのぞきこんでみたいと思いながら廊下ですれ違うと足が早くなってしまい、顔をまともに見ることができない、そんなぐちゃぐちゃな自分を持て余す。  いやもう毎日毎日そんな感じですよ?   好き、そう思っただけで心拍数あがる、心臓活動半端ない、もしや恋って身体に悪いのでは? 少なくとも心臓は酷使されているよなあ、と思う。  姿を見た途端、胸の真ん中がきゅんとなるのは位置的に肺なのか、横隔膜が跳ねあがるのかそこらへんはわからない。  でも横隔膜跳ねあがったらしゃっくりが出そうなものだが今のところそれはまだない。  好きな人を見るたびにしゃっくりが出たら、それはそれで悲し過ぎる。 「ああ、もう疲れる」 「いいなー、楽しそう。あー、あたしも恋したい」  よしりんはおべんとうのからあげを一口でばくんとほおばった。  その感じ、もう恋を捨ててやしませんか?  どこかの男子がその食べっぷりに惚れてくれるといいけれど。 「で、どうするの? これから」  あーちゃんが卵焼きをお箸できれいに二分割しながら聞く。 「どう、って……」  今のところ、見ることができればそれで十分、なんですけど。  学校で見るイドハルは「あ、雑誌と同じ」と思う事も出来るのだけれど、あまりに普通で目立たないから、だんだんあたしはわからなくなる。  モデルのイドハルを見て好きになったはずなのに、今はもうイドハルがモデルということも忘れつつある。  隣のクラスの、背の高いぼーっとした男の子を好きになっちゃった、って感じだ。  言葉さえ交わしたこともない、相手はおそらくあたしの名前も知らない、きっと存在にすら気付いていない、そう考えると長い長いため息が出る。  でも、そんな自分が嫌いじゃない。  むしろ、好き。  愛されるように。  愛せるように。  愛に恵まれた人生でありますように。  山里 愛。  まったく、凄い名前を両親はつけてくれたものだ。  親の愛まで思い知ってしまう、恋ってすごい。 「あれから一カ月もたつのに何の進展もないってどういうこと?」  よしりんとあーちゃんが呆れ、確かにおっしゃる通りですとは思うのだけど、だからって何をどうしろと? と案外意気地無しなのだった。  イドハルの事ばかり考えて、他のことなんて全部どうでもいい、なんて気持ちになるのはいわゆる恋ボケってやつですか。  イドハルを見ることができた回数を日々カウントしながら恋ボケ上等、と開き直ったりもする。  だけど十回見かけても、百回すれ違っても、それだけのこと。  何も起こらない。そうだよ何も起こらない。  これじゃ雑誌の写真を何度も見てため息をついているのと変わらない。 「じゃあさ、こういうのはどう? 廊下でイドハルを見かけたらふざけて愛をぐいっと押すから」 「あ、当たっちゃった、ごめんなさーい」 「そんで筆箱を落として中身が散らばって拾ってもらって、ありがとう、なんてね」 「手が触れて目と目が合って」 「きゃー」 「小学生か」  女子の想像力のたくましさとけたたましさ、完全に妄想の世界だね、でもその世界で遊んでいる間はまだ安全、何も起こらないし傷付かない。 そうして日々はあっというまに過ぎる。  視界に入る偶然だけできゃあーって心拍数があがる、浮かれた恋気分も、少しずつ変わり始めている。  それだけじゃもう、だめなんだよ。 だんだん欲張りになっていくあたしの心はどんどん膨れ上がって、いつかぱあん! とはじけそう。 「ど~う~し~よ~う」  ベッドの上でバタ足をしていると「自分の心を整理するのにもっともいい方法は書くことです」と国語教師の言ったことを思い出した。  がばりと起きて、近くにあったノートをつかむと一番後ろのページを開いた。  あたしはどうしたいのか。  シャープペンシルをかちかち鳴らし、さて書こうとして手が止まる。  自分の欲望を書き連ねるってかなり恥ずかしいことじゃないか?   恥ずかしい。  誰かに見せるわけじゃないのに、何故そんな感情が?  ああそうか、自分で自分の欲望を自覚するのが恥ずかしいのか。  でも恥ずかしいなんて自分に気取ってどうすんの? 意味ないじゃん。 で、勇気を出して「よし」と気合を入れて書いてみる。  でも、文字化したそれは自分でも呆れるくらい、ささやかなものだった。  あたしに、気付いて。  あたしを、見て。  ちょっと無表情にも思える彼が、少しだけでも笑ってくれたら、きっと天に昇るような気持ちになるだろう。  想像しただけで、胸の奥がトロリと甘くなって顔が崩れ、熟し過ぎた果物みたいな気持ちになる。  書くだけなんだから好き放題書けばいいのに、がっかりするくらい控えめな希望。  なんだよ。  ささやか過ぎるじゃないか。  あたしって、実は控えめな性格だったのかも。  いや、単に臆病なだけか。  見ているだけの日々。  見る回数を増やすためだけに、無意味に廊下をうろうろするあたしのスマホに万歩計をいれておいたら、全国を歩いて測量した伊能忠敬くらい、歩いているかもしれない。  授業中、黒板の前に立つ先生を見ながらこの黒板の向こうにイドハルがいるんだな、と思う。  隔てる壁、厚さ何センチくらいだろう。  そんなにたいした距離じゃないのになんでこんなに遠いんだろう。  イドハルが長袖シャツの袖をまくるようになって、やがて半袖になって、シャツの白さがまぶしいと目を細めるようになった、季節はすでに夏。 「うわ、もう夏……夏休みになっちゃう」  言ってるそばから夏休みに突入。  夏休み中とはいえ、部活もある。  汗を流して青春するには運動能力が不足していることを中学三年生までに自覚したから、絵を描くのは嫌いじゃないし、ゆるそうだしという理由で選んだ美術部は飽きの文化祭までに絵を出せばオーケー。  今のあたしには、イドハルがいない学校に来る意味なんてない。  だけど、家にいても退屈だ。 「家だとなかなか描く気しないし、雑になるんだよね。とりあえず、夏休み中に一枚、仕上げちゃおうと思って」  よしりんの描く絵はちょっと変わっている。  力強い色彩と迷いなき線で丸いオレンジ、青い三角、黄色と緑の四角が画面に重なり合ってのっかっている。正直「どう? 」と言われると「うーん? 」と首をひねってしまうような絵だ。 「なんだろ。ピカソみたいな?」 「いわゆる抽象画ってやつですか?」 「ちなみにタイトルは?」 よしりんは「あ、タイトルか。いるよね。どうしよう」と自分の絵の前で悩み始めた。  タイトル決まってない、といわれたとたん「ピカソ的抽象画」ではなく「幼児の落書き」に思えてしまう、この不思議。 「タイトルは、自由!」  右手を高々とあげての報告も、つい無視してしまう。 「なんか、あの絵って、よしりんそのままじゃん」  テレピン油を壺に足しながらあーちゃんがあたしに向かってささやいた。  絵を描く時だけあーちゃんは髪を後ろでひとつに束ねる。  とたんにきりりとして見えて、背筋伸ばして絵を描いている時だけあーちゃんはいつものあーちゃんと少し違って見える。 「いえてる。よしりんって我が道を行くタイプだよね」  あたしは薄く麦わら帽子の形をなぞり、編みこんだ麦わらの模様をチクチクと描く。 「あの絵、自分、ってタイトルでもいいんじゃない? よしりんの場合」 「自分、つまり自画像! となるとかなりシュールな自画像だけど」 「全部、聞こえてるんですけどー。ガラス瓶と麦わら帽子の脇にねこじゃらしの束置いて、夏の思い出とかいうタイトルみえみえのモチーフ組んでる人たちに言われたくないわ」 「いいじゃん。夏の思い出のどこが悪いの」 「でも早く描かないとねこじゃらしの色が変わっていく……」 「急がなきゃ」  あーちゃんと道端で適当に採ったねこじゃらしは、一週間さかさまにつるしてドライにしてあるから、形も色も急変はしないと思うが、いっしょに添えた   はっぱは、薄緑から薄茶に変わりつつある。  ひからびてくるりと丸まった葉の曲がり具合は、日に日に酷くなっている。 よしりんも一緒のモチーフで描こうと誘ったのだが「下手だから同じものを描きたくない」ときっぱり断られた。  よしりんの思い切りのいいデタラメ画(失礼、でもいい表現が思い浮かばない)は、あたしにもあーちゃんにも真似できない。 「よしりんみたいな思い切った線はひけない」というあーちゃんはけっこう写実主義。  好きな画家はフェルメールだしね。  美術部の中でも描ける人として暗黙のうちににカウントされているし、口先ではどうこう言いながらも実はけっこうやる気で美術部に入部したんじゃないのかな。 「愛、イドハルどうするの?」 「別にどうもしないよ」 「イドハルかー。背の高いだけの暗い男」 「思うんだけど、職業上目立たないようにあえて暗くふるまっているんじゃないのかな?」 「あ、そうか。計算?」 「いや、あれは絶対、素だって」 「大人しいだけで暗いわけじゃないよ。大体、おしゃべりな男って軽々しいと思わない?」 あたしは必死で弁護する。 「だけど、しゃべらない人って困るよ。デートの時とかさ。何を話しても「うん」とか「ああ」とかしか言わないんじゃ、グッタリしそう」 「大丈夫。見ているだけでいいし、そもそもデートの予定もないし」 「キャー、聞いた?」 「聞いた。見ているだけでいい、って」 「うわー恥ずかしい」 「堂々と、よく言った」 「ちょっと、声、大きい」  ううん、と咳払いが聞こえて瀬野部長の存在を思い出す。  ガラス瓶だのフランスパンだのレモンだの、面倒臭そうなモチーフを部室の隅の丸テーブルに組んで黙々と筆を運んでいるから、時々その存在を忘れてしまう。  一瞬、背筋を伸ばしてから静かにそれぞれの絵に向かった。    片づけを終えて外へ出るとまだ辺りは明るかった。 「でも、本当はデートしたいでしょ?」  夏の夕暮れは、斜めの日差しが強すぎて眩しい。 「そりゃあね。でも、あたしばっかりネタにしないでよ。あーちゃんやよしりんには好きな人、いないの? 」 「だって、現実世界には都築礼みたいな人がいないんだもん」  よしりんは悲しそうな顔をした。  都築礼というのはよしりんが今ハマッている漫画に出てくるとてもきれいな顔をしているが天然で本人は自覚なくギャグをふりまき、周囲がオオウケしているのを「何故みんなそんなに笑うんだ」と本気で悩んでいるという変なキャラである。 「都築礼って空気読めないオトボケキャラの人?」  あーちゃんのツッコミは容赦ない。 「かっこいいのに面白い人だよ」 「顔はいいけど奇妙な人じゃん?」 「あーちゃんや愛には都築礼の良さがわからないんだよ」 「わからないなあ」 「面白いとは思うよ? 都築礼」 「でも彼氏としてはどうかなあ」 「じゃあ、あーちゃんの好きな人ってどんな人よ? どういうタイプ?」 「好きになった人がタイプかな」 「えー、じゃあ、美術部部長の瀬野さんとかどう?」 「瀬野部長か……悪くないけ筋肉なさそうだな……」 「筋肉? あーちゃん、筋肉マッチョが好きなの?」 「マッチョは嫌だけど、ちょっとあった方が頼れる気がするし。絵のモデルに使えそうだし」 「絵のモデル! それってやっぱり裸体ですか? あーちゃん、大胆……」 「裸体、ってよしりんが言うとエッチだな~」 「でも筋肉モリモリな美術部部長って嫌じゃない? なんでそんなに筋肉あるの、って」 「イーゼルや石膏像をいつも運んでいるからです」 「今度、イーゼルにオモリでもつけとく? 瀬野部長を鍛えるために」 「イーゼル五本まとめて運ぶといいかも。けっこう重いよ、大きさあるし」  あたしたちはいつもおしゃべりで元気いっぱい。  でもそれは仮の姿。  本当は悩み多き年頃で、自分の気持ちを持て余してる。  それはもちろん、あたしだけじゃなくて、だから思いもかけない災難がやってきたりする。身に覚えのないことでも。  ただ、イドハルを見ていた、というだけなのに。
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