第一部

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第一部

                1                    木立を抜けると、視界が開けた。  崖のような、急な斜面の高みだった。そこからは、美しい平野が見下ろせた。  木々は青葉にあふれ、田植えを待つばかりの水田に影を落としていた。広々とした耕作地の向こうには、一筋の川がゆったりと流れており、さらにその先に、みごとな円錐形の山がひとつそびえている。  平地に島のように浮かぶ端正な山。大那(だいな)の隅々まで名が知られている夜彦山(やひこやま)だ。麓には、街路や平たい屋根の連なりがはっきりと見て取れた。  あれが天香(あまつか)の都か。  不二(ふじ)はふうと一息ついて、大きな旅嚢を肩から下ろした。  いやにひょろひょろとした手足の、背の高い青年だ。いつも笑っているような細い目と、愛嬌のある大きな口元。日にさらされた長髪は、ぱさついて茶色っぽくなっている。骨張った身体をつつんでいる筒袖の着物も、裾を絞った細身の袴も、だいぶくたびれ、汚れていた。なにしろ故郷を出てから二月あまり、都をめざしてひたすら歩いて来たのだから。  馬を使えばいいと父は言ってくれたが、不二はありがたく気持ちだけを受け取った。初めての長旅を、自分の足で存分に楽しみたかったのだ。  しかし、それももう終わる。ここから見ると、都には今日中にたどりりつけそうな距離だった。この山を抜ける道が、早いところ見つかればの話だが。  やれやれ。  不二は、ぼりぼりと頭を掻いた。  都が近くなるにつれ、街道は行き交う人馬が増えていた。その埃っぽさに嫌気がさして、道をそれたのが悪かった。街道を使わなくても、都に降りる山越えの道があるはずだと思ったのだ。  ところが山中に入り込んで、ここぞと思った道を辿れば行き止まり。  不二は、もう一度、足下の斜面を見下ろした。  岩がむき出しになった山肌に、短い灌木がところどころ生い茂っていた。斜面のずっと下に、細い道が見て取れる。街道ではなさそうだが、山を下りる道にちがいない。  斜面の高さと勾配をじっくりと眺め回して、不二はひとつ頷いた。引っ掻き傷や擦り傷の二三は出来るだろうが、降りていけないことはないだろう。  不二は、守り袋を入れた懐の上を、一度まじないのように軽く叩いた。旅嚢を背負いなおし、身を屈めるようにしてそろそろと斜面を下りる。  突き出た岩に足をかけ、灌木の枝につかまりながら、初めは順調に行けそうだった。しかし、半分以上降りたころ、選んだ足場が悪かった。  足が滑り、とっさに掴んだ木の枝もあえなく折れて──。  不二は斜面を転がり落ちた。  勢いあまって道の真ん中に投げ出された不二の目に、疾駆する馬の姿が飛び込んできた。  立ち上がって身をかわす暇もない。  両手で頭をかばうのがやっとだった。  土煙が上がり、怒ったような馬のいななきが聞こえた。  不二は、おそるおそる顔を上げた。栗色の馬は鼻息荒く、前足で空を蹴っていた。  みごとな手綱さばきで馬を止めたのは、小柄な、まだ子供といってもいいくらいの少年だった。 「申し訳ない」  不二はなんとか立ち上がった。身体のあちこちが痛んだが、今は憮然とした表情でこちらを見下ろしている少年の方に心を奪われていた。  白っぽい上衣と袴に、紺の腰帯をきりりと締めている。細く真っ直ぐな黒髪、目鼻立ちのはっきりした、少女のように愛らしい顔立ち。  しかし、何より不二を驚かせたのは、その目の色だった。  彼の双の瞳は、明るい紫色をしていたのだ。  故郷でも話には聞いていた。この大那で目に紫を持っているのは龍の一門のみ。紫色の瞳はすぐれた呪力者のあかし、天香の都に住まう大那の支配者のしるしなのだ。  こんなにも早く、龍の一門に出会えるとは。  〈龍〉の少年は、ふいと顔をそむけて馬の横腹を蹴った。不二は、あわてて脇に飛び退いた。  馬は、すばらしい勢いで駆け去って行く。  不二は、しばらくぽかんとしてその後ろ姿を見送った。  やがて、思い出したように身体の土を払い落とし、一声小さな笑い声を上げた。  道に迷ったおかげで、思いもかけない幸運に出会ったような気がした。  それに、この道が都に続いているのは間違いなさそうだ。
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