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 不二が天香の都に入ったのは、陽もだいぶ傾いたころだった。  目印にしてきた夜彦山は、黄昏色の空に深い影をきわだたせていた。  間近で見上げると、何やら近づきがたい威圧感のようなものがある。龍の一門のほとんどがそこに居を構えていることは、不二も知っていた。  訪ねる場所は、すぐに見つかった。都の南側にある、ひときわ大きな邸宅だ。  蛇の一門の惣領(そうりょう)多雅(たが)の館だった。  惣領とは一門の宗主、大那中の蛇の一門を束ねる最高家長である。まして、天香の〈蛇〉は代々龍の一門の執権を務め、〈龍〉に次ぐ地位にある。  同じ一門とはいえ、普通ならば不二のような田舎出の若者がおいそれと会いに行ける人物ではなかった。しかし、多雅の妻は不二の父の妹なのだ。若い時代の気ままな旅で、遠縁にあたる不二の家に立ち寄った多雅が叔母を見初め、そのまま都に連れ帰ったいきさつがある。  前もって手紙で知らせていたので、叔母の三咲(みさき)は喜んで迎えてくれた。不二が赤ん坊の時に嫁いだ、顔も憶えていない叔母だったが、故郷のことを尋ねながらあれこれと世話をやいてくれるのが嬉しかった。  長旅の汚れを落とし、さっぱりとしたところで多雅に挨拶した。  多雅は温厚そうな顔に顎髭をたくわえた、大柄な男だった。隣には叔母とよく似た顔の、いかにも育ちのよさそうな青年が座っている。さっき叔母が話していた、一人息子の真崎(まさき)に違いない。 「二三日は、ゆっり休んで旅の疲れを取るがよかろう」  多雅は不二に酒膳を勧めながら、上機嫌で言った。 「わしを頼って来たからには、勤める先はいくらでもある。案ずることはない」 「ありがとうございます」 「おぬしは、幾つになる?」 「この春、二十歳になりました」 「真崎より、二つ上だな」  多雅は、愛おしそうに息子を見やった。 「いずれは要職につき、真崎を助けてやって欲しいものだ。側に従兄がいれば、真崎も心強かろう」  真崎は薄く笑みを浮かべ、値踏みするように不二を眺めている。怖い者知らずのお坊ちゃんといったところだな、と不二は思った。それに、性格もなかなかきつそうだ。 「まず手始めに、〈龍〉に仕えてみるのはどうかな」 「いきなりですか?」  声を上げたのは真崎だった。多雅は鷹揚に応えた。 「〈龍〉あってこその〈蛇〉だ。彼らがどんな者たちか、学んでいくのも悪くはなかろう」 「しかし、〈龍〉を見たこともない者に……」 「ここに来る途中で会いましたよ」  不二は言った。 「それは美しい紫色の目をしていました。まだ子供でしたが」 「ほう」  多雅は、驚いたようにうなずいた。 「奇遇だな。それはおそらく羽矢(はや)さまだ」 「羽矢さま?」 「ちょうど、そのお方のことを考えていたところでな。側仕えの者がいなくて困っている」 「あの方は、気難しいとの噂です」  真崎は顔をしかめた。 「長く勤まる者はいませんよ。だめでもともと、とおっしゃるならしかたありませんが」 「これこれ」  多雅はたしなめるように、 「決めつけるでない。不二が初めて会った〈龍〉が羽矢さまなら、何かの縁があるかもしれん。縁とはこれで、なかなか馬鹿にできないものでな」  多賀は妻に目をやった。 「わしが気まぐれに早波(はなみ)に行ったのも縁、たまたまを三咲を見かけたのも縁。そのおかげでおぬしがいるのだぞ」  叔母はくすりと笑い、真崎は肩をすくめた。 「どうだ、やってみるか」 「願ってもないことです」  不二は、多雅に向かって深々と頭を下げた。  あの少年には、また会いたいと思っていたところだ。それがこんな形で叶うとは、やはり自分は運がいい。 「精一杯勤めさせていただきます」 「詳しいことは、真崎に教えてもらうがよい」  満足そうに多雅は言った。 「〈龍〉の近くにいることは、必ずおぬしのためになるだろうよ」  野宿に慣れた身体には、柔らかい床がかえって落ち着かず、不二はなかなか眠れなかった。  何度も寝返りを打ったあげく、あきらめて闇の中で目を見開いた。  いくらか、興奮しているのかもしれないな。  不二は、頭の下に手を組んで考えた。明日から、都での生活が始まるのだ。  故郷に不満があったわけではなかった。  不二の父は大那(だいな)の最南端、早波半島の一帯を治める有力者だ。いずれは家を継ぐ兄の下で、不二も何不自由なく暮らしていけるはずだった。  だが、それだけではつまらない。決まり切った一生を送るのは嫌だった。自分で自分の居る場所を築いてみたいと思ったのだ。  手始めは〈龍〉の側人か。  不二は昼間の少年を思いだし、思わず笑みを浮かべた。さぞかし自分は間抜けな顔をしていたことだろう。  龍の一門と、どう接すればいいのか、不二は皆目見当がつかなかった。ほとんどの大那の人間にとって、〈龍〉は雲の上の存在だ。  気の遠くなるような昔、大那で覇権を争っていたのは龍の一門と鳳凰の一門だ。二つの一門は守霊の龍と鳳凰同様、長命で、計り知れない呪力を持っていた。  呪力と呪力の戦いは、大那の地形を変え、月の運行さえ乱す凄まじさだったという。長い戦いの末、勝ったのは龍の一門で、鳳凰の一門は大那から姿を消した。龍の一門は、天香に都を定めた。今から二千年ほど前のこと。  しかし、ここ百年ばかりの間、龍はしだいにその数を減らし、空を飛ぶ姿もめったに見られなくなった。〈龍〉の多くも都を離れることなく、蛇の一門に雑事を委ねて静かに暮らしている。  それでも彼らの治世が揺るがないのは、誰もが〈龍〉の呪力を恐れているからだ。彼らは人の心を読み、空間を瞬時に移動し、山を動かすことも、天候さえも変えることができるとか。  〈龍〉の惣領の伊薙(いなぎ)のことは、大那では伝説のように語られている。  〈龍〉と〈鳳凰〉の壮大な戦いは、多くの呪力者の死を生み出した。猛った心のまま命を落とした彼らは、鎮まることを知らず、荒ぶる霊となったのだ。  もはや生きていた頃の理性は失せ、すべてを破壊することだけに喜びをみだした。太陽は包み隠され、絶えることない大嵐や地鳴り、あらゆる天災が大那を襲った。  伊薙は一門の呪力を集め、荒魂を夜彦山に封じ込めた。自身が封印となり、今も夜彦山の山頂で眠り続けている。二千年の時を経ても死ぬことなく。  本当のところは、どうなのだろう。  まさしく、〈龍〉を権威づけるための伝説ではないのか。  これから、自分で確かめてみるしかないだろうな。  不二は、ひとり頷いた。  深く息を吐き出して目を閉じると、ようやく眠りの波がやって来た。        
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