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3
翌朝、与えられた部屋でのんびりしていると、真崎がやって来た。
「母上に、都を案内してやれと頼まれた」
あいわらず生意気な口振りだが、母親には従順だとみえる。不二は思わず笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。ぜひ」
さわやかに晴れた、いい日だった。夜彦山は薄い羽根のような雲を背に、麗しい姿を見せていた。
両側に植樹された都の大路を、不二は真崎の後についてゆっくりと歩いた。大路は夜彦山の真下にある政庁まで続いていた。
荷車を引いた牛のまわりを、犬が吠えたてながら駆け回っている。役人に率いられた労働者の一団が向こうの角から現れたと思えば、綺麗に着飾ったどこかの姫君が侍女を従えて歩み去る。都には、田舎にはない雑多な賑わいがあった。
〈蛇〉の惣領の息子の顔は知れ渡っているらしく、すれ違う者たちのほとんどが、真崎に深々と頭を下げた。だが、〈龍〉らしき紫色の瞳に、出会うことは一度もなかった。
「天香には、どれくらいの人間が暮らしているのでしょうね」
不二は尋ねた。
「三万を少し越したくらいかな」
真崎は答えた。
「大半は労役で地方から来ている者たちだ。それから幾つかの弱小一門。残りはわれわれ〈蛇〉と、ひとにぎりの〈龍〉」
「ひとにぎり」
「五百人前後だ」
不二は目を細めた。思ったよりも少ないな。
蛇の一門が〈龍〉の執権になれたのは、なんといってもその要領のよさだ。〈龍〉の呪力を恐れて近づけなかった他の一門とは違い、〈蛇〉はなりふりかまわず〈龍〉にまとわりついた。
〈龍〉にとっても、〈蛇〉の存在は重宝だったにちがいない。まして、それほど数を減らした今となっては、〈蛇〉なしで大那を支配することなど不可能だろう。
〈龍〉あっての〈蛇〉、と多雅は言ったっけ。
その逆も言えるわけだ。
「真崎さま」
向こうから、声をかけてくる者がいた。
目をやると、小柄な少女が人懐っこい笑顔で立っている。臙脂色の上衣に赤い裳。どこかの館の侍女といったいでたちだ。
「ああ、泉か」
真崎が親しげに答えた。
「こんなところで、何をしている?」
「おつかいです」
なるほど、泉と呼ばれた少女は、両手にしっかりと細長い包みを抱え込んでいる。鬱金染めの布にくるまれた、筒のようなものだ。
「真崎さまこそ」
不二を見上げ、首をかしげた。
「お見かけしない方ですが」
「母方の従兄だ」
真崎が説明した。
「昨日、田舎から出てきたばかりなので、都を見せてやっている」
「そうでしたの」
泉はぺこりと頭を下げた。
「泉は、私の乳母の末娘なんだ」
真崎が言った。
「今は〈龍〉の館に仕えている。それは何なんだ、泉」
「惟澄さまの新しい矢ですわ。今朝出来上がったばかりなのを工房に取りに行ったんです」
「ほう」
真崎は、興味ありげに筒を見つめた。
「どんな矢だ?」
「それは、みごとなものですよ。このあいだしとめた鷹の矢羽です。残念ながら今お見せするわけにはいきません。まずは惟澄さまに見ていただかないと」
「そうだな」
「いっしょに来られますか? 惟澄さまは、弓場にいらっしゃるはずですよ」
「ふうん」
真崎は、不二に目を向けた。
「惟澄さまは、泉の主だ。顔を売っておくのも悪くはないと思うが」
不二は軽く頭を下げた。
「お任せします」
政庁の朱塗りの門が見えてきたところで、真崎と泉は左に大路をそれた。街中の喧噪はしだいに遠のいて、いつしか三人は大樹の生い茂る林の中に足を踏み入れていた。
木々の下はほの暗く、濃い緑の匂いがする。
ここはもう夜彦山の一部、〈龍〉たちの領域だ。
そう思うと、空気までもが呪力に満ちた特別なものに感じられ、不二は思わず身を固くした。
山頂には、惣領の伊薙が眠る。二千年の〈龍〉の息吹に絡み取られてしまわぬように、真っ直ぐ背筋を伸ばして先に進んだ。
真崎と泉は、しゃくにさわるほど慣れた足取りで歩いていく。
ふいにさわやかな風が吹いてきて、木立が開けた。
不二は目を細めた。今までの陰鬱な林とはうってかわった、明るい風景がそこにあった。
薄色の小花がところどころ群生している野原の向こうに、広々とした湖が水をたたえていた。さざ波立つ水面は、まぶしいほど日射しにきらめいている。
丈の高い水草の間から、池に浮かぶ舟が小さく見えた。何人か乗っているようだが、逆光でその姿は影になっていた。
かすかな笑いさざめきが、風に乗って聞こえてきた。
「〈龍〉の若殿や姫君が舟遊びをしています」
泉が教えてくれた。
「今日は天気がいいですから」
「で、おまえの主は、お仲間にも交じらずに弓の稽古か」
真崎はちょっと肩をすくめた。
「あいかわらずだな」
泉はにこりとした。
「だって、そんな方ですもの」
湖を眺めやりながら野原を抜けて、再び木立の中に入ると、道はゆるやかな登り坂になっていた。ほどなく木を切り開いて地ならしした弓場に着いた。
道は射手のいる方に続いていたので、不二は弓を打ち起こしている者の姿をはっきりと見ることが出来た。
そして、目を見開いた。
不二が想像していたのは、片袖脱いだ筋肉質の若者だったのだが、そこにいたのは、しなやかに長い手足の女性だった。
黒髪をきっちりと一つに束ね、筒袖の衣に袴。鹿革の胸当てをつけている。二十歳はまだ過ぎていないだろう。いくぶん顎の尖った細面の美しい顔立ちは、龍の一門特有のものなのかもしれなかった。昨日不二が出会った羽矢と、どこか似ている。
泉は、惟澄が射終わるまで待つつもりらしく、その場に立ち止まった。
遠くのあずちの前には綱が張り渡され、小さな板が数枚ぶら下がっていた。風のために、薄い板は絶えず揺れていた。
あれを射抜くのは並大抵の技ではないだろうと不二が思ったとたん、鋭い弦音がして、向こう端の板が真っ二つに割れた。
惟澄はゆったりとした動作で次々に矢をつがえ、的板は澄んだ小気味よい音をたてて、残らず割れた。
「呪力?」
不二は思わず声を出した。泉が、くすりと笑って答えた。
「呪力なら、矢を放たなくても的は壊せますわ」
弓を下ろした惟澄は、三人に目を向けた。
「泉について来ましたよ、惟澄さま。新しい矢を作られたそうですね」
真崎が如才なく進み出て言った。
「ええ」
惟澄は、不二に目を向けた。不二は深々と頭を下げた。
下げながら、意外な思いにとらわれた。
けげんそうに不二に向けられた瞳。その色は羽矢のような〈龍〉の紫ではなかった。ごく普通の、黒い瞳だったのだ。
「わたしの従兄で、不二といいます」
真崎が紹介してくれた。
「早波から出てきたばかりです。父は羽矢さまの側人に推挙すると言っていましたよ」
「そう」
惟角はかすかに眉を上げた。しかし、すぐに微笑んで、
「貸してちょうだい、泉。筈を合わせてみましょう」
泉は包んだ矢筒の中から、二本の矢をうやうやしく取り出した。惟澄が手にした矢をのぞき込んだ真崎は、まんざらお世辞でもない声を上げた。
「これは美しい雪白ですね。こんな羽根はめったに手に入りませんよ」
「ええ。一羽から二本しか作れなかったの」
真崎の言うとおり、輝くような純白の羽根の竹矢だった。惟澄は矢を両手に乗せ、満足げに眺め回した。
「的を付け替えて来ます」
泉が的場に向かって駆け出した。惟澄が矢筈と弦の調節をしているうちに、慣れた様子であづちに刺さった矢を引き抜き、新しい的板を付け替えた。
泉は、向こうから大きく両手を振って、惟角に合図をした。
惟澄は、惜しげもなく新しい矢を番え、的前に立った。
心持ち細められた目は、的よりももっと遠くに向けられているようだった。
呪力と集中力は、紙一重なのかもしれないな、と不二は思った。集中力が極まった時、呪力も生まれるのだろう。弓の名手だって、一種の呪力者と言えないこともない。惟澄はたまたま初めから、〈龍〉の呪力者であるだけのこと。
惟澄は、のびやかに弓を引いた。その身体は美しい十文字を描いていた。
鋭い弦音とともに放たれた矢は、的を射抜いてあずちに刺さった。
矢羽の白さが、いつまでも不二の目の奥に留まった。
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