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「真紀、お疲れ様、先に上がるわね」 「涼子お疲れ様~、お迎え気をつけてね」 「あー帰ってからも忙しいと思うと憂鬱よ」  働くママは本当に凄いなと尊敬する。  昼間は普通に仕事をこなし帰ってからは子供の面倒と家事。  私なんて一人暮らしの家事でさえ大変なのに……  本当に母親って凄いなと涼子を見ていると日々思う。  ガラリと椅子を回転させ反対隣の松田くんの方を向いた。 「松田くんもお疲れ様、今日はもう上がって大丈夫よ」 「え、水野さんはまだ帰らないんですか?」 「私はまだ少し仕事残ってるから片付けてから帰るわ」 「じゃあ俺、手伝いますよ」 「いいのよ。私の仕事だから、松田くんは帰りなさい」  パソコンに視線を戻しやるかぁと気合を入れる。 「水野さん」 「え……?」  急に声が近くに聞こえたと思ったら私の耳元で松田がボソリと囁く。 「二人でやった方が早いでしょ?」  まただ。  松田くんの吐息が耳に当たり身体の芯がゾクゾクと波打つ。 「ちょ! 近すぎだから!!」  松田くんの胸あたりを両手で押し自分から引き離す。 それでもやはり男の力には勝てず松田くんはまた私を後ろから包み込むように顔を耳元に近づけてきた。近すぎて息が苦しい…… 「で、二人でやった方が早いですよね?」  松田くんの濁りのない優しく声が身体の中に響き、染み込んでいくように伝わっていく。 (いやいやいや、流されちゃダメよ! 私!) 「ここ会社だから! 近すぎ! 分かったから、手伝ってもらうから!!」 「誰も気にしちゃいないですよ、てか会社じゃなかったら近くてもいいんですか?」 「するから! 私がしてるから! 会社じゃなくても駄目!」  「はいはい」と言いながらやっと松田くんは離れてくれた。  カチャカチャと二つの音が不規則に重なる。  松田くんはまだ入社して二日目なのに中途採用なだけあって仕事を覚えるのもこなすのも早い。  確かうちの会社に転職してくる前はどこかのマーケティング会社に勤めていたとか誰かに聞いたような気がする。誰だっかは忘れたけど。  結局松田くんに手伝ってもらったおかげでかなり早く終わった。他の社員は帰っていて周りを見渡すと私と松田くんの二人だけが静かな夜の会社に残っていた。 「手伝ってもらったおかげで早く終わったわ、ありがとう」 「何のための部下なんですか、こき使って下さいよ」 「何言ってんだか。そうだ! 今日のお昼のお金返すわね」  急いで鞄から財布を取り出しお金を出そうとしたが、急にグイッと腕を引き寄せられ体制を崩してしまった。  ドサっと松田くんにもたれかかってしまう。 「ちょ、ちょっと……」  松田くんは背も高く見た目はスラッとしているくせに意外ともたれかかってしまった胸はワイシャツの上からでも分かるほど程よくついた筋肉でガッチリした体型なのが分かった。 「お金はいらないから抱きしめてもいいですか?」 「な、何言ってんのよ!」 「ってか抱きしめますわ」 「ひゃっ」  思わず変な声が出てしまい恥ずかしくて顔を伏せる。  いつの間にか松田くんの両腕の中にスッポリ包み込まれてしまっている自分。 その状況も恥ずかしくて松田くんの顔が見れない。 「水野さんって小さくて可愛い、スッポリ俺の腕の中におさまっちゃいますね」 「……何言ってんのよ」  松田くんが私を抱きしめる力が少し強まった。  恐る恐るゆっくりと顔を上げると真剣な表情の松田くんとバチッと絡み合うように目が合い、囚われたように目が逸らせなかった。 「俺が水野さんの事好きって言ったこと覚えてます?」 「お、覚えてない」  恥ずかしくて咄嗟に下を向いた。それも虚しく俯いていた顔を松田の手によってグイッと上げられる。  私はどうも松田くんのまっすぐな瞳が苦手だ。 いや、苦手というか眼鏡の奥にある真っ黒な瞳に吸い込まれそうになり、逸らせなくなる。  下から見上げる松田くんは耳まで真っ赤にし照れているのか少しはにかんで私を優しい目で見ていた。 「水野さん、好きです」 「……ありがとう」 「付き合ってくれますか?」 「……それは……無理」  年下の、しかも会社の後輩と付き合うなんてやっぱり考えられない。  確かに松田くんのこの表情にはドキッとした。 でもそれはドキッとしただけで、好きという感情とは別物だと思う。 と言うより好きと言う感情が思い出せない。 「返事早……でも俺まだまだ諦めませんよ?」 「お好きにどうぞ……もう離してっ、んんっ……」  まただ。  一瞬で松田に唇を奪われた。  告白を断ったばかりの女にすることなのか!? けどそのキスはけして強引ではなく力強いのに優しく、そして激しく求られるようにたくさん矛盾したキス。 「んんっ……」  ゆっくりと松田くんの唇が離れていく。  頭がぼーっとしているが少し唇がジンジンと痺れているのは明確に分かった。 「水野さん」  返事ができない。 「諦めないからね?」  松田くんはニヤッと自信ありげな笑顔を見せた。 「っつ!! も、もう帰る!!!」  グイッと松田の腕から抜け出し、鞄を急いで手に取り会社を出ようと足早に歩く。  私のカツカツとヒールの音とコツコツともう一つの靴の音。 「なんで隣歩いてんのよ」 「だってこんな夜に女性一人とか危ないでしょ?」 「いつも一人で帰ってるから」 「これからは俺が送りますよ」 「結構です」  私の歩幅に合わせて横にピッタリついてくる松田くん。 しかもさりげなく車道側を歩いてくれている。 恋愛経験少ない私でも分かる。  松田くんは多分優しい。  それは女を落とす為なのか、素なのかは分からないが。  結局同じ電車に乗ってしまった。 満員とまではいかないが席は空いていなかったので自分の降りる駅の方のドアのそばで立つ。 松田くんもいるが特に話すこともないので最寄駅に着くまでの間お互い無言で電車に揺られていた。 「じゃあ着いたから、また明日」  一言別れの挨拶をし電車を降りる。 降りたはずなのに、何故かまだ松田くんは私の隣にいた。 「え……松田くんもここの駅なの?」 「違いますよ、改札まで送ろうかなぁと」 「いや、いいから! 早く乗りなさい!」 「いいからいいからっ」 「ちょっと!!」  スタスタと改札口まで歩き始める松田くんの後を急いで追う。  なんだか終始松田くんのペースに巻き込まれている気がする。 「じゃあ水野さん、気をつけてくださいね」 「……ありがとう、じゃあまた明日」 「また明日」  そう言いながら松田くんは私の頭を優しく撫でた。 「んなっ!! 帰る!!!!」  ブンっと頭を振り松田くんの手を跳ね除け改札を出た。  でもなんとなく気になって振り返ると松田くんはまだ同じ場所で立って私を見送っていた。  それはそれはとても優しい顔で。  その笑顔を振り切るように私は早歩きでアパートまで帰った。
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