年末年始

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年末年始

「失礼しました」 「ありがとうございました」  丁寧に腰から身体を折り、深々と頭を下げる。  今時珍しいくらいに慇懃(いんぎん)な所作で部屋を後にした二人は、ドアが見えなくなるほど遠くまで離れてからようやく息を吐いた。 「これで先生の所は全部挨拶し終わったかな?」  古峯瑛士(こみねえいじ)は確認するように隣へ並ぶ青年に視線を流す。青年……青柳和佐(あおやぎかずさ)は「ああ」と静かに相槌を打つと、眦のすんなりとした涼やかな目元でエイジの視線を受け止めた。  エイジとカズサの身長は共に百七十八センチ。小数点以下は日によって多少前後するため厳密に言えば同じではないのだが、ざっくりと同じとすると、それ以外には類似性を見つけられないほど二人は対照的だ。  片や一方は長めに伸ばした金にほど近い髪とモデルのようにすらりとした体躯、甘いマスクに柔和な雰囲気を纏わせた、誰もが振り返らずにはいられないほどの美丈夫。  片やもう一方は顔を隠すように前を長く伸ばした黒髪と、野暮ったい太さの黒縁眼鏡。風が吹けば飛んでしまいそうな縦長のシルエットにひっそりとした雰囲気の陰気さ。  例えるなら、太陽と月。  朝と夜。  犬と猫。  陽キャラと陰キャラ。  それほどまでに並ぶと天と地ほどの差があった。  しかし、多くの者は事実を知らない。  その黒髪が絹糸のようにさらりと繊細で艶やかなことを。  肌は雪のように白く滑らかで、きめ細かいことを。  厚いレンズの向こうにの瞳があり、顔立ちは端正で佳麗なことを。 「……一緒に来てくれて助かった」  隠しきれない色気の滲む低い声で、カズサがぽつりと告げる。うっかりすると聞き逃してしまいそうな音はエイジの鼓膜を柔らかく擽り、知らずのうちに口元が緩む。 「俺もどうせ挨拶しなきゃだったし、カズサが居てくれて助かったよ。ていうか何よりも御礼をするべきはマコちゃんじゃない? マコちゃんには悪いけど、正直マコちゃんの手紙にあんなに効果があるとは思わなかったもん」  エイジの言葉に少々躊躇いながら、カズサも頷く。  十二月ももう終わろうかという下旬。エイジとカズサの二人はそれぞれの講義を受け持つ教授たちに、揃って頭を下げに回っていた。  事の発端は同性愛者であるカズサに好意を寄せたエイジと、同性愛者に嫌悪を抱くエイジの元友人との構内乱闘騒動だ。今では概ね綺麗に治ってはきたが、騒動直後のエイジの顔は殴打された末に醜く腫れあがっており、療養期間として二週間の謹慎処分を受けている。エイジはその謹慎処分があけた謝罪のため教授たちの反応はまずまず好意的なのだが、問題はカズサの方だった。  根本の原因ではあるものの乱闘騒動に加わっていたわけでもなく、何の処罰の対象でもなかったカズサは、しかし騒動の翌日からエイジと同じだけの期間、自主的な休学を取っていた。多くの講義が五回以上休むと単位取得が出来なくなるとしており、中には一度でも休むと厳しいという講義も受けていたカズサは、全ての講義で『今期の単位取得は非常に難しい』という境地に立たされてしまっていた。  そのギリギリを掬ってくれた存在。それこそが話題に上がった『マコちゃんの手紙』だ。  マコちゃんこと染屋信(そめやまこと)は二人の(主にカズサの)年の離れた友人であり、カウンセラーとして日々様々な企業や学校へと赴いては人々のメンタルケアを行っている。そのため診断書ほど絶対の効果があるものではないが、カズサが精神的に大学へと行ける状況になかった事を口添えする手紙を書いてくれたおかげで、単位の剥奪は免れ、休んだ分を補填するための課題をこなすことで全ての話が纏まった。この先の欠席は一度たりとも許されなくなってしまったが、逆を言えば今まで通り真面目に乗り切れば、単位を落とす心配はしなくて良さそうだ。 「なんにせよ、これで安心して冬休みを迎えられるね」  十二月の頭から休んでいた二人にとってようやくの学校ではあるのだが、あと数日も通えば大学の冬休みが始まる。概ね一週間程度の休みではあるが、新しい年をすっきりとした気持ちで迎えられるかどうかは今日にかかっていたため、肩の荷が一つ降りたと言っていいだろう。 「課題が終わるかは怪しいけどな」  一難去ってまた一難。  仕方がないとはいえ大量に課題を出されたカズサは少々げんなりした様子で小さく息を吐く。その細い肩を優しく叩きながら、エイジは「カズサなら大丈夫だよ」と励ました。  いつまでも教授たちの研究室が立ち並ぶ廊下で話ている訳にも行かず、二人は構内にあるカフェへと移動した。四限目の最中ともあって人はまばらだが、ここに残っているということは次に授業がある者たちがほとんどだろう。かくいうエイジも五限に、カズサは五限と六限に授業が入っている。  それぞれに飲み物だけを頼んで、店の中でも端の方の、人の少ない二人掛けの席に腰を下ろす。対面で向かい合うこの形の席では二人ともどうしたって脚がぶつかるため、エイジだけ少し斜めにかけて、机の外側で足を組んだ。それだけで狭い店内がヨーロッパのお洒落なカフェのようにぱっと華やぐ。 「そう言えば、カズサは年末年始どうするの?」  エイジはマグカップを「ふぅふぅ」と冷ましてからキャラメルラテに口をつける。上に乗った生クリームで一瞬冷たさを感じたのも束の間、流れ込んできたコーヒーがまだ熱くて、思わず眉を顰めた。 「課題の話をしたのに訊くのか?」  一方カズサは同じように表面を吹いた後、マグカップを両手で握って、結局口をつけずにトレーに戻した。カフェオレはまだ熱いと判断したのだろう。飲みたそうに、けれど飲めずにじっと水面を見つめるカズサを眺めながら、エイジもカップをトレーに戻した。 「いや、まあ、バイトとかどうなのかなって」 「二十九まで営業して、三十日が大掃除、三十一日から三日までが休みだ。お前は実家に帰るんだろ?」  ちらりと向けられる緑色の瞳。  店内の光を受けて複雑に煌めく金に近い虹彩が綺麗で、思わず見とれながらもエイジはポリポリと頬を掻いた。 「うーん、今回はいいかな」 「どうして?」 「いやぁ、実家って言ってもうち都内だし、帰ろうと思えばいつでも帰れるからさ」  大学の傍にアパートを借りて一人暮らしをしているエイジだが、その理由は『家から遠いから』ではなく『一人暮らしをしてみたかったから』というだけだ。現に実家までは一時間もあれば帰れてしまうため、年末年始だからと帰省する必要は特段ない。 「そうか。……あ、バイトが忙しいとか?」 「ううん、うちは二十九日から五日まで休みだよ。個人経営のレストランだし、住宅街にあるからどうせお客さんも来ないでしょ、って。俺はカズサに比べて課題もそんなにはないし」 「なら一人で優雅な正月だな」 「ねえ、折角だから一緒に過ごしたいってお誘いだったんだけど?」  言えばカズサはきょとんとした様子でエイジを見た。想像もしていなかった……そう言わんばかりに純粋に驚いている。そのまま静かに出方を伺っていると、自分の中でどう整理をつけたのか、しおしおとマグカップに目線を戻しながら、低い声でぼそりと告げた。 「……別に、気を遣わなくていい」 「遣ってないよ?」 「嘘つけ。帰る家のない俺はどうしたって一人になる。どうせお前のことだからそれを気にしたんだろ」  早くから同性愛者の自覚があったカズサは、高校に上がると同時に家から縁を切っている。それからおよそ五年の間、一度たりとも家には戻らず、連絡すら取っていないようだ。  勿論エイジには心配する気持ちはある。けれどようやく恋人になったにも拘らずつれないことを言うカズサがじれったくて、エイジは拗ねた様に僅かに唇を尖らせた。 「『好きだから一緒に居たい』って言わないと通じない?」 「……でも、せっかくの正月だろ」  引くに引けないのか、カズサの方も食い下がる。 「だから家にはいつでも帰れるんだって」 「謹慎の連絡は親御さんの方にも行ったろ。その後顔は見せたのか?」 「見、せてないけど連絡はしたし」 「会えるなら会うべきだ」 「じゃあカズサも一緒に来てよ」 「行けるわけないだろ。それとも謝りに行けって話か? 『ゲイの俺がお宅の息子さんを誑かしました。その所為で怪我をさせました』って」 「っ、カズサ」 「『孫の顔を見せるどころか、付き合っている事すら後ろ指さされますが、許してください』って頭を下げろってことか?」 「違うってば!」  思わず制止に力が入る。その所為で大きく上がった声は狭い店内にわん…と響き、それまで聞こえていた微かな話し声すらぴたりと止んだ。聞こえるのは空調機のゴオォッという音と、うっすらと流れているジャズ調の洒落たBGMだけ。  御免なさい、と謝りながらエイジはちらりとカズサの横顔を見る。周りから顔を背けるように、壁の方へと顔を向けているカズサのつんとした横顔には、自分の言葉で傷付いたような、寂しい色が滲んでいた。  そんな事、言わせたかったわけじゃないのに。  口をつけたキャラメルラテはいつの間にかちょうどいい温度になっていたものの、びっくりするくらいの苦さでエイジの喉を、食道を、べったりと這うように滴り落ちる。 「……目を離したらまた消えちゃうんじゃないかって、怖いんだよ」  苦みを吐き出すように溢すと、カズサの顔が少しだけエイジの方を向いた。 「もうしないって、言っただろ」  この二週間の間、カズサは一人自責の念を抱えて遠く離れた石垣島へと逃げ出した。  自分を愛してくれる人が居ることが信じられなくて。  自分が不幸に引きずり込んでしまうことが怖くて。  あの時は自分を守るためだけに必死だったカズサだが、今思い返せばエイジの気持ちを試したかったのかもしれないと、少しだけ思うようになっていた。  本当に好きだというなら何もかもを投げ打って自分の所に来て欲しい――蔑まれ、罵られ、虐げられるばかりだったカズサにとって、自分に無条件で優しくしてくれるエイジの真意を測るには、そうするしかなかったからだ。  石垣島から東京に戻ってくるまでの間に『もう二度とこんな事しないで』としつこくエイジに言われ、その度にカズサは誓った。カズサの言葉を信じていない訳ではないのだろうが、エイジにはすっかりトラウマになってしまっているようだ。 「じゃあ証明するために年末年始は俺と一緒に過ごしてくれるよね?」 「強制か」 「だって素直に頷いてくれないんだもん」  最初っから決定事項なんじゃないか。  意志の強さを垣間見たカズサは、諦めた様に息を吐き「……課題の邪魔するなよ」と最低限の釘を刺す。 「うん、大丈夫。俺は静かにカズサのこと見てるから」 「それが邪魔だって言ってんだよ」 「だって好きなものはずっと眺めてたいんだもん」 「見られてるのは好きじゃない」 「じゃあ抱っこする。ぎゅーってしながらカズサのことずーっとよしよしする」  途端、後ろから羽交い絞めにされたまま頭を撫でられる光景が鮮明に見えて、カズサは一瞬のうちに白い頬を赤く色付かせながら、照れ隠しのように唇を尖らせた。 「っ、ば、しょを考えろよ」  外でする話じゃないだろ。  目尻の切れ上がった瞳でキッと睨むものの、エイジの方は悪びれもせず、あっけらかんと答えた。 「えー、今更。みんな俺とカズサのこと知ってるのに」 「……は?」 「あれだけ大勢の前で派手に喧嘩したもん。当たり前でしょ。謹慎の間ユウキが状況を教えてくれてたけど、ずっと噂になってたらしいよ。俺も一人で居るとめちゃくちゃ声かけられるし」  ぱっと辺りを見回すと、店内にいた人が一斉に目を逸らす。先ほど険悪なムードを醸してしまったから……というだけではない、興味津々といった空気が漂っていることに、カズサはこの時初めて気が付いた。一番近い所に座っていた女子三人組などは、そろりと視線がかち合ったかと思うと、はにかむような笑顔を受かべ、思い思いに手を振ったり、両手をぐっと握って応援するような仕草を取った。  そんな彼女たちへにこやかに手を振り返すエイジに対して、軽く当惑しているカズサは、何とも言えない表情でエイジへと顔を戻した。 「……なんでお前は笑ってられるんだよ」  カズサの脳裏に蘇るのは、忌々しい中学二年生の時の記憶だ。  揶揄うためだけに多くの面前で告白をさせられて、ゲイであることを全校生徒に知られたカズサは、卒業をするその時までずっと、肩身の狭い思いで過ごした。大学生活もあと二年。フラッシュバックしそうになる気持ちに知らず胸を押さえると、伸びてきたエイジの手が、さらりとカズサの髪を掻き混ぜた。  その手は辿るように胸元の手へとかかり、柔らかな力で引き剥がす。机の上で僅かに指が繋がれたまま、エイジの人差し指がカズサの人差し指を優しく撫でた。 「だって、ほとんどは好意的だし。声をかけてくれた人の中には『貴方が怒ってくれたから隠すことは止めました』って彼女と手を繋いできた女の子とか、すれ違いざまに『ありがとう』って言ってきた男の子もいるんだよ。皆カズサと同じように悩んで、隠れて、肩身の狭い、苦しんできた人たちだった。勿論、口さがない奴は居るから罵詈雑言吹っ掛けられることもあるけど、今の子たちみたいに自分は同性愛者じゃないけど、って応援してくれる子もいて、俺は『良かったな』って思ってるよ。俺たちだけじゃなくて他の人も報われるなら、殴られて謹慎処分を受けた甲斐があるじゃん」 「……ほんと、お前って……」  そこまで言って、カズサは口を噤む。  自分の中で、今の気持ちを何と表現したらいいのか、よく分からなかった。  エイジは深く追求することもなく、にこりと笑って話題を切り替える。 「ってことでカズサ、どんな年越しとお正月が良い? 夜に初詣行って除夜の鐘を撞きに行く? それともなんかご利益貰えそうだし、頑張って起きて初日の出でも見る? この辺だと初日の出ってどこで見れるんだろうね。江の島の方とか行ったら海から昇る初日の出とか見れるのかな? 個人的には山から昇る初日の出より、水平線の向こうから太陽が昇ってくる方が綺麗だと思うんだけど……」 「――コタツでみかんと年越し蕎麦」  途切れそうにない言葉を淡々と遮ると、エイジは少し考えたのち「うちにもカズサのとこにもコタツないよね?」とひどく正論を突き返した。 「じゃあ布団」 「それって寝正月? それとも布団にくるまってみかんやお蕎麦なの? ……まあ、俺たち旅行に行って帰ってきたみたいなものだし、おうちでまったりした年末年始は賛成だけど」 「本も読まなきゃならない」  文学専攻のカズサに出された課題の多くは、課題となる本を読んでレポートを纏めることだ。経済専攻のエイジも本を読んでレポート、という点では変わりないが、文学作品と学術書では中身の密度や読み解き方も違う。おまけにカズサの方が課題の量も多いため、冬休みは『休み』という実感もほとんどないまま集中する必要があるのかもしれない。 「そうだね。じゃあ今年の終わりはゆっくりとしよう」 「ん」  短く返事をしながら、カズサは再びマグカップを両手で持ち上げた。今度はそろりと口をつけ、小さく喉を鳴らして嚥下していく。珍しく可愛い動作だと思っていると、カズサの頬がピクリと緩みそうに震えているのが隙間から見えて、エイジは思わず目尻を溶かした。
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