はしるひと。

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 何よ、と累奈は機嫌を悪くした。せっかくみんなが楽しんでいるのに、なんでそんな水を差すようなことを言うのだろう。あの少年だって、ただ突然走り出すだけで何の害もないではないか。いつもキラキラとした笑顔で、どこかに走って行くだけの存在。人に幸運を齎す精霊、という方が絶対ありうる話だと思うのだが。 ――まるで悪霊か、もっと悪いものみたいに言っちゃって!あーいやだいやだ、これだから頭の固い人は!  気分転換もかねて、このすぐあとに累奈は一人トイレに行った。文芸部の活動は、週に一度の“討論会”を除けば、あとのスケジュールは比較的フリーである。文化祭で出す部誌に寄せる原稿だけ間に合わせれば何も問題はない。まだその時期も遠く、ぶっちゃけて言えばまだまだ累奈も暇だったのである。なんせ、部誌として書く内容さえ決まっていないのだから。  一番近くのトイレが混んでいたので、仕方なく階段を上がって四階のトイレに向かう。個室に入ろうとしたその時、ふと振り返った累奈は自分が入ってきたトイレの入り口にあの少年が立っていることに気づいた。 「あ、もうちょっとー。ここ女子トイレ。小学生でも、あんまり入らない方がいいと思うんだけどなー?」  累奈はついつい、友達気分で話しかけてしまう。が、彼は聞こえているのかいないのか、いつものようにトイレの床に手を突いて準備を始めてしまった。顔を上げて、笑う。いつも通り、キラキラと輝くような眼をこちらに向けてくる。 ――いつも、すごく楽しそうに走るんだよね、この子。何か、面白いものでもあるのかな。どこかに行きたいのかな。  腰を上げて、数秒。彼は一気に床を蹴って、トイレの中を走り出した。 「あ、待って!」  またいなくなってしまう。あんな風に楽しそうに、嬉しそうに走る彼の目的が知りたい。部長の言うように、悪い奴には到底見えないのだ。ならば、彼があれだけ全力疾走する先には何か、とても素敵なことがあるに決まっているのである。ああ、ひょっとしたら彼はそれを、自分達に教えたいだけなのではないか。  私は彼が消えていく先へ、追いかけようと必死になった。トイレの洗面台のシンクに足をかけて登り、窓を開けて身を乗り出す。遠く遠く、白い背中が学校の敷地の外まで突き抜けて走り去っていくのが見える。  追いかけたい、自分も、そっちへ。 「行かないで!」  累奈は窓の外から飛び出し、自分も走り出そうとした。  そこが、四階であることなど忘れて。
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