第一話 ピザトーストと窒息

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 ここ一カ月、うまく眠れていない。  夜働いているから夜に眠れないのは仕方ないとして、明け方になっても朝になっても昼になっても一向に眠気が来ない。市販の睡眠導入剤を飲んでみてもスマホの電源を切ってみても部屋のカーテンを替えてみても、全く眠くならない。ここまでくると諦めるしかないような気がしてきて、今日に至ってはとうに日付を越えているというのに食パンを作り始めてしまった。  『そんな風に』私の人生は成り行きだ。  特別それを選んだわけではなく楽な方を選んでいたらここに辿り着いていた。いつかは本気出すと思うことさえ(・・)ないまま、この調子で死んでいくのだろう。  やりたくないことはしない。できないこともしない。極力頑張らない。これが私の人生の三箇条だ。  だから眠れないならいっそパンを作る。実に成長性が見えない人生だ。 「この食パンくん、どうやって食べようかな……明日のお昼にピザトーストにしようかな……本当はピザがいいんだけど、ピザを一人で食べてたら引かれるし、ピザ配達って愛想なさすぎて心折れるし……いっそピザトーストを自分で作った方が傷つかなくて済むからね……こんなこと話していると食パンくんの胎教に悪いかしら? ごめんね? おやすみね? よく寝て大きくなるのよ……」  パン生地を型に詰め、オーブンで二次発酵をさせる。『この子は二十分後には二倍の大きさになるのね』とパン生地に母性を抱き始めているあたり、いよいよ行きつくところまで行きついた二十九歳といえるだろう。自覚があるのだから許していただきたい。  私はこの悲しい現実を紛らわすためにテレビをつけた(余談だが、対面式キッチンの良いところは食べる人の顔が見えることではなく、料理をしながらテレビを見られることだと思う。決して食べさす人がいないとかそういう話ではない)。チャンネルを回していると、一昔前に流行ったラブコメディードラマが再放送されていた。  一度も観ていないドラマだったが、お転婆なヒロインとクールなヒーローという分かりやすいキャラクター設定のようで、話についていけそうだ。やる気なくその番組を眺める。今日は海水浴の回らしい。  テレビの中ではイケメンと美女が水際ではしゃぐ一方、こちらは真冬の深夜、骨まで寒さが染みる静かな夜だ。 「……寝たい」  今の私に必要なのはイケメンによる顎クイではなく睡眠であることは間違いない。胸をキュンとさせる暇があったらシンと静かに眠りたい。海水浴よりも森林浴。塩水を浴びるぐらいなら酒を浴びて寝た方がましだろう。  ――リンとオーブンが鳴った。  何一つ思考もドラマの展開も進まないまま、ニ十分過ぎていたらしい。 「ああ……、だるい」  二倍の大きさになったパン生地を取り出してオーブンを二百度に予約をした。  テレビ画面の中ではイケメンが格好いいことを言っているようだが、脳髄までその意味が届いてこない。目を開いていることもだるくなり、壁にもたれて目を閉じた。 『俺がお前を好きなことぐらい知っているだろ!』  なに言ってんだこのポンコツと思いながら目を開くと、画面の中のヒロインは赤面していた。そしてオーブンに映る自分の顔はヒロインと同じ人類のものとは思えないほど乾ききっている。  ――リンとオーブンが鳴り、余熱が終わる。 「……駄目だ!」  理由はないが『このままでは駄目だ』とはっきり分かった。 「もう食べよう! 今食べよう! 今すぐにピザトースト食べよう!」  時間はついに三時を過ぎたが、そこについては考慮しないものとした。  予熱の終わったオーブンにパン生地を入れて、冷蔵庫の中身を確認するとケチャップもトマトもない。食品のストック棚を見てもケチャップの予備はなくトマト缶すらなかった。これは諦めろという天からの啓示だろうか……。 「……しかしもう口の中がトマト……」  焼きたてパンに貪りつく、クロックムッシュ、フレンチトースト、……代替案はいくらでも出せるが、私の口が求めているのは『ピザ』だった。つまり他に選択肢はない。私は頑張りたくないのだ。  モコモコのソックスをニーハイに履き替え、ロングコートを羽織る。胸まである髪をコートの外に出せば下にパジャマを着ていることはバレないだろう。マスクをつけたところでタイミング悪く、リン、とオーブンが鳴る。 「今日はもう本当に駄目だな……」  キッチンに戻ると焼きたてのパンの匂いが満ちていた。  オーブンから取り出したパンを型から外すとそのままで十二分に美味しそうだ。このまま貪りつけばいい気がしてくるほどの香しいパン。 『留学するって本当?』 『ああ……向こうの大学で勉強したいんだ……』  つけっぱなしのテレビの中で美男美女が、夕日を見ながら語り合っていた。 「……え、きみたち、高校生なの? 高校で……海辺で……語り合うこと……ある……?」  私はテレビを消し、型を水洗いしてから、トマト缶を買いにコンビニに向かった。
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