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第四章
あと少し。
あと、ほんの少し。
力を入れれば。
飛び越える気持ちがあれば。
彼女と行ける。
あと、少し。
気がついたら涙が溢れていた。手は震え、喉元に押し当てたかんざしの軸が震える。鋭い軸の先が薄く皮膚を裂いた。
生温かい血が、喉を伝う。
その温かさが公孝の心をじわりと濡らした。
瞼の奥、過ぎったのは血の一滴が心に落ち波紋を広げる幻想。
その波紋と共に心の奥から滲み出す、声。
自分を呼ぶ声。
母の声。父の声。
直人の声。
学校の教師の。
馴染みの文房具屋の店員の。
亡くなった祖父の。
混ざり合いながら響く数多の声、声。
声は、公孝の手を掴んで放さない。
「ごめん……」
ごめん。
涙声でわびた公孝の手からぽろり、とかんざしが落ちる。喉元に手を当て体を倒し、公孝は泣いた。声を限りに泣いた。
ほんの少しさえ飛び越えられない自身のの無力さ、ふがいなさに泣いた。
その公孝の背後でかすかに衣擦れの音が響いた。
「馬鹿ね」
細い手が公孝の頭をそうっと撫でた。公孝からは決して触れられない彼女の手の感触がじわりと心に染みた。
「できるわけないのよ。あなたは生きているのだから。命とはそういうもの。繋がり続けるもの。どうあっても終わりたくないとあがくもの。それが命というもの」
穏やかな彼女の声音に泣きぬれた目を上げると、彼女はたおやかに微笑んで告げた。
「お願いがあるの」
透明に透けた彼女がそっと囁く。声までも空気に消えてしまいそうで思わず彼女に向かって身を屈めた公孝に、彼女は静かに言った。
「あなたが私を見えなくなるまであと少し。できればこれまで通り、楽しく過ごしたい。いつも通りあなたの日々の暮らしの話を聞きたい。
笑って、ほしい」
そう言う彼女の目がわずかに潤む。目を見張った公孝に彼女は柔らかく滲んだ声で続けた。
「あなたと過ごした時間が、私はとても好きだったから。もう少しあなたとその時間を過ごしたい」
「………うん」
涙が絡む喉を宥めて頷くと、彼女はほっとしたようにまた笑った。
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