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愛しかない
「波留、晩ごはんまだ?」
キッチンカウンターの向こう側から、
大ちゃんが私を覗き込む。
さっき着せたパジャマのポケットに
両手を突っ込みながら、体を左右に揺
らしている。それは、子供の頃からの
彼の癖で、私はその様子に頬を緩める
と、ザーザーと蛇口から流れ出る水を
止めた。そして、洗っていた皿を水切
りカゴに置く。
「ごめんね、もう少しだけ待って」
そう言うと、大ちゃんは、つい、と
拗ねたように口を尖らせた。
「もう少しだけ?」
「うん、もう少しだけ。今日はハン
バーグだからさ。向こうでテレビ観て
待っててよ」
つけっぱなしのテレビに目をやり
ながらそう言うと、彼は肩を竦め、
「わかった」と呟いてソファへ戻っ
ていった。おとなしくソファに座った
彼の後頭部を眺めながら、再び食器を
洗い始める。
彼が「晩ごはんまだ?」と聞いてく
るのは、たぶん8回目くらいで、私は
いまハンバーグを載せていた皿を洗っ
ている。
彼は覚えていないが、晩ごはんは
とっくに食べ終えているのだ。だから、
お腹を空かせてそう言っているわけじ
ゃないのは、百も承知だった。
――「若年性認知症」。
医師からその病名を聞かされたのは、
結婚から6年目の春だった。
真っ青な空に、咲き誇る桜の薄色。
そんな爽やかな景色が見える病室で、
医師が淡々とその名を口にしたのを、
いまも鮮明に覚えている。
漠然とした不安は数年前からあった。
けれどそれは、「最近物忘れが酷いね」
と、笑って済ませられる程度のもので、
すぐに病気を疑って受診するようなもの
ではなかった。共通の友人の名を忘れた
り、いまが和暦何年かわからなくなった
り。そんな“ど忘れ”は誰にでも起こりう
ることで、その頻度がじわじわと増えて
いき、「あれ?何かおかしいな」と思い
始めた頃には、仕事での業務に支障を
きたすようになっていた。
ショックで呆然としているのか、それ
とも、言われたことがまだ理解できてい
ないのか、ぼんやりとしている大ちゃん
の背中を擦りながら、病室を出る。
付き添いで来てくれた義母は、目を
真っ赤にして、ハンカチで口を押えてい
る。私は待合室の長椅子に二人を座らせ
ると、義母の前にしゃがみ、必死に言葉
を探した。
けれど、混乱した頭ではなかなか言葉
が見つからない。結局、何も言えないま
ま義母の手を緩く握ると、義母は涙を
流しながら、
「ごめんね。本当に、ごめんね」
と繰り返した。
その言葉に、つん、と鼻先が痛くなっ
てしまう。私がしっかりしなくちゃ、
と、唇を噛み、必死に堪えていたのに、
その糸がプツリと切れてしまいそうに
なる。どうしてか、私にはそれが
「見捨てないで。どうか逃げないで」
と、言っているように聞こえてしまっ
たのだ。
――そんなこと、するわけないのに。
私は心の内でそう呟きながら、泣き
続ける義母の手の甲を擦り続けた。
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