愛しかない

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 それからしばらくは、私の心もささ くれ立っていた。まだ、4つになった ばかりの幼い娘を見れば、その不安は 一人では抱えきれないほど膨れ上がっ てしまった。  夫はまだ37歳で、本当ならこれから が働き盛りだ。なのに、定年まで働くの が難しいどころか、1年後、2年後、いま の職場にいられるかも、わからない。  いままでのように、娘の就学を待って 働こうなんて、呑気なことは言っていら れない。  自分が働きながら、娘を育てながら、 彼の介護もしていかないと……。  そんなことばかり、ぐるぐると頭の中 で考えていた私は、ある時、その不安を 抱えきれなくなり、爆発した。  「何度も同じこと言わせないで!!」  そんな悲しい言葉が口から飛び出して しまったのは、彼が病気を告げられて から1週間目のことだった。  いつものように、「晩ごはん何?」 と同じことを訊いてきた彼に、思わず 怒鳴ってしまったのだ。  前の晩も、その前の晩も、よく眠れず、 私は疲れ切っていた。  大ちゃんは驚いたように、ただただ目 を丸くしている。おとなしくお絵描きを して遊んでいた娘は、びっくりしてパパ の足元に駆け寄っていた。そして、彼の 足にしがみつく。くしゃりと顔を歪める と、娘はそのひと言を言った。  「パパいじめないで……」  それは、何げないひと言だった。  病気を知る前なら、ほんの一週間前な ら、「はいはい」と笑って流せるひと言。  けれど、そんな何げない娘のひと言が、 限界まで膨らんでいた私の風船のような 心を、パンと割ってしまう。  私は蛇口の水を止め、手を拭ったタオ ルをその場に投げ捨てると、涙が零れ 落ちてしまう前に二階に駆けあがった。  そして、真っ暗な寝室へと飛び込んだ。  春なのに、ひんやりと冷たい部屋の中 は、熱く煮えたぎっていた心の内を少し ずつ冷ましてくれる。  「お爺ちゃんとお婆ちゃんになっても、 一緒のベッドで寝ようね」  いつかの日、そんなことを大ちゃんに 言いながら選んだ、木目が美しいウォー ルナットのダブルベッドに、私は体ごと 突っ伏した。  とめどなく、涙が零れ落ちてふかふか の布団を濡らしてしまう。  あんなこと、言いたくなんかなかった のに。大ちゃんは、好きで病気になった わけじゃないのに。  なんて私は小さい人間なのだろう?  そう思えば、熱い涙が溢れて溢れて 止まらない。  私はしばらくそのまま、嗚咽を漏らし ながら真っ暗な寝室で泣き続けた。  それからどれくらい経ったころだろう か?きぃ、と寝室のドアが開く音がして、 私はようやく涙が乾き始めた顔を上げた。  ぱちり、と部屋の灯りがつけられ、 振り返った先に大ちゃんの顔が見える。  大ちゃんは泣きはらした私の顔を見る と、少し苦しそうに顔を歪め、私の傍 に座った。
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