第四章 私の方が好き

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 午前中は問題なく仕事を終えて、ついに例の時間がやってきた。 「稲垣さん、いらっしゃいました」 「ありがとうございます」  先に来客を応接室に案内してもらい、戻ってきた秘書と入れ替わりで、悠誠は扉の前に立つ。  ネクタイを締め直し、大きく深呼吸する。何度会っても、この来客だけはいつも以上に緊張して神経を擦り減らす。今日も無事に終えられることを願いながら、悠誠は扉を開けた。 「お待ちしていましたわ、悠誠様」 「お待たせして、申し訳ございません。佐伯(さえき)様」  恭しくお辞儀をして、悠誠は部屋に入る。目の前のソファに腰掛けているのは、玉木ホールディングスの中で上位五冠内の取引先である、たまご屋さんの一人娘、佐伯(さえき)薫子(かおるこ)だ。  たまご屋は、鶏を数十種類と飼っていて、美味しい卵を生み出せるように、品種改良に力を注いでいて、大成功した養鶏家である。  直接的な取引や商談は、澪依と薫子の父で行っている。薫子は一度勉強と称して、商談に同席をしたことがあり、その時に悠誠と会って一目惚れをしたそうだ。これは、後々薫子の父から澪依を経由して聞いた話で、悠誠は特にあまり気にしていなかった。だが、彼女は違っていた――――。 「悠誠様、今日は仕事の話ではなく、個人的なお話をしたくて参りましたの」 「個人的な話、と言いますと?」 「わたくしと、していただけません?」 「デート、ですか」 「ええ、よ」  断られることなど微塵も考えていない自信満々な態度で、薫子は悠誠を見つめる。意図が読めず、悠誠はどう返事をすべきか、困惑する。下手に相手を刺激することは良くないと、最近身を持って経験した。 「ええと……、それは水族館や夜景などを観に行くデート、のことですか?」 「ええ、そうよ」 「具体的にはどういう所に行きたいなど、決まっているのでしょうか」 「まぁ、それじゃあ、してくれるのね?」 「あ、いえ、それは」 「行くところは決まっているわ。夜景が綺麗に見えるレストランがあって、そこに悠誠様と行きたいの。たまご屋の卵が使われた料理がメインに出てくるお店なのよ」 「そうなのですね」  相手の機嫌を損ねないように、必死に無難な返事をする。薫子はかなり有頂天になっていて、話がどんどん進んでいく。 「特別なディナーを用意してくださるそうなの。今週の金曜日の夜六時に会社へお迎えに上がりますわ」 「えっと、それは」 「スーツはこちらでご用意しておくので、ご安心くださいませ。あ、お父様には内緒でお願いしますね」
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