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午前中は問題なく仕事を終えて、ついに例の時間がやってきた。
「稲垣さん、いらっしゃいました」
「ありがとうございます」
先に来客を応接室に案内してもらい、戻ってきた秘書と入れ替わりで、悠誠は扉の前に立つ。
ネクタイを締め直し、大きく深呼吸する。何度会っても、この来客だけはいつも以上に緊張して神経を擦り減らす。今日も無事に終えられることを願いながら、悠誠は扉を開けた。
「お待ちしていましたわ、悠誠様」
「お待たせして、申し訳ございません。佐伯様」
恭しくお辞儀をして、悠誠は部屋に入る。目の前のソファに腰掛けているのは、玉木ホールディングスの中で上位五冠内の取引先である、たまご屋さんの一人娘、佐伯薫子だ。
たまご屋は、鶏を数十種類と飼っていて、美味しい卵を生み出せるように、品種改良に力を注いでいて、大成功した養鶏家である。
直接的な取引や商談は、澪依と薫子の父で行っている。薫子は一度勉強と称して、商談に同席をしたことがあり、その時に悠誠と会って一目惚れをしたそうだ。これは、後々薫子の父から澪依を経由して聞いた話で、悠誠は特にあまり気にしていなかった。だが、彼女は違っていた――――。
「悠誠様、今日は仕事の話ではなく、個人的なお話をしたくて参りましたの」
「個人的な話、と言いますと?」
「わたくしと、でぇとしていただけません?」
「デート、ですか」
「ええ、でぇとよ」
断られることなど微塵も考えていない自信満々な態度で、薫子は悠誠を見つめる。意図が読めず、悠誠はどう返事をすべきか、困惑する。下手に相手を刺激することは良くないと、最近身を持って経験した。
「ええと……、それは水族館や夜景などを観に行くデート、のことですか?」
「ええ、そうよ」
「具体的にはどういう所に行きたいなど、決まっているのでしょうか」
「まぁ、それじゃあ、でぇとしてくれるのね?」
「あ、いえ、それは」
「行くところは決まっているわ。夜景が綺麗に見えるレストランがあって、そこに悠誠様と行きたいの。たまご屋の卵が使われた料理がメインに出てくるお店なのよ」
「そうなのですね」
相手の機嫌を損ねないように、必死に無難な返事をする。薫子はかなり有頂天になっていて、話がどんどん進んでいく。
「特別なディナーを用意してくださるそうなの。今週の金曜日の夜六時に会社へお迎えに上がりますわ」
「えっと、それは」
「スーツはこちらでご用意しておくので、ご安心くださいませ。あ、お父様には内緒でお願いしますね」
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