第四章 私の方が好き

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 言うだけ言って、薫子は「では、また金曜日に」と笑顔で席を立ち、側に立っていた秘書と一緒に部屋を出て行ってしまう。  悠誠は呆然とするしかなかった。怒涛な情報量に思考が停止している。 「え、今のは確定事項ってことか? 二人きりで夕飯……」  すぐに頭に浮かんだのは、澪依の顔だった。彼女にこのことは知られたら、まずいような気がした。 「これはあくまで、仕事ってことで処理しないとまずいよな……」  額を押さえながら、悠誠は澪依に何と伝えるかを考える。薫子の誘いを断れば、仕事に影響を及ぼしかねない。薫子の父は、仕事においては厳しい面があるが、一人娘である薫子に対してはかなり甘い。 「とりあえず、金曜も出勤は確定か」  自分のスケジュールに、金曜の夜六時以降を誰にも見られない鍵付きで予定を入れる。  ひとまず今日一番の大仕事は終わったため、急いで秘書室に戻り、帰り支度をする。 「残りの仕事は家で受けるので、電話やメールで連絡ください」 「了解でーす」 「お疲れ様でした」 「社長に宜しくお伝えくださいね」  同僚たちに見送られながら、悠誠は帰路につく。  会社から家までは、電車で十五分ほどの距離だ。帰り道のスーパーで、澪依が好きな有名ブランドのアイスや夕飯の材料も買って帰る。家にたどり着き、悠誠はその足で寝ているであろう澪依の部屋へ向かう。 「澪依さん、ただいま戻りました」  そっと部屋の扉を開けると、背中を向けて寝ていた澪依がこちらへ寝返りを打った。 「……おかえり、ハル。早かったね」 「急いで帰ってきました。ある程度の仕事は、終わりましたし。熱は下がりました?」 「ううん、まだ三十七度から三十八度を行ったり来たり」 「そうですか。水枕、変えますね。澪依さんの好きなアイスを買ってきたので、冷凍庫に入れておきますよ」 「やった」  弱っている澪依は、いつも以上に素直で反応が可愛い。抱きしめたいのをぐっと堪え、水枕とスーパーの袋を手に部屋を出る。  台所ではきちんと食器などが洗ってあり、水切りかごに入れられていた。体調が悪いのだから、食器洗いなどしなくても良かったのにと思いつつも、自然と口元が緩む。澪依なりに、悠誠の負担を減らそうとやってくれたのだろうと容易に想像がつくからだ。本当にどこまでも可愛い人だ。表現が不器用なところもまた良い。敏い悠誠以外の男には、彼女のこういった愛情表現は伝わらないだろうと自惚れる。  ニヤつきながらも悠誠は、冷蔵庫に買ってきたものを入れていき、新しく水枕を作る。
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