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ホテル事業は、竜也が社長の座についてから始めた新事業で、まだ軌道に乗れていないのだろう。それで、女性客の多い「おむらいす亭」なら、卵料理の飲食事業と繋げられると考えた。
「残念ながら、グループ会社となった際にこちらの条件を飲んでいただけない限り、何度来られてもお断りです」
「お前なぁ……。それだけじゃないことに気付けよ」
「は?」
小声すぎて、上手く聞き取れなかった。
聞き返そうと竜也の顔を見つめた時、唇に仄かな温もりを感じたかと思えば、目と目が間近で合う。咄嗟のことに思考が停止する。
固まって動かない澪依を見て、更に唇を重ねようとする竜也の顔が迫ってきた。
寸でのところで、体が動いた。力一杯に頬を引っ叩き、部屋中に乾いた音が響き渡った。
「っ痛……!」
「な、何を……」
急いで唇を擦る。口紅が手につくのも構わず、力強く擦り、唇がじんじんと痛み出す。
不覚にも、じわりと涙が零れそうになる。
竜也が左頬を押さえながら、澪依の方を見るのと同時に応接室の扉が開いた。
「い、稲垣くん……!」
「神村様、話は終わりましたでしょうか。下にお迎えの車がいらっしゃっております」
いつもに増して、冷ややかな声で悠誠が入って来た。
ちらりと澪依を一瞥し、竜也に歩み寄る。
勢いよく竜也の赤いネクタイをぐいっと引っ張り上げて、耳元で何か囁く。
竜也の目が大きく見開かれ、みるみる顔が赤くなる。
「て、てめぇっ! 覚えてろっ」
謎の捨て台詞とともに、竜也はドカドカと足音を立てながら、出て行った。
そのまま静かに悠誠が扉を閉め、立ちすくんでいる澪依を強く抱きしめた。
「い……いな」
「今は、仕事モードを切ってください。誰もこの時間は来ません」
「……ハルっ!」
「大丈夫です。僕はここに居ますよ、澪依さん」
「うっぐ……、ぐすっ」
悠誠の胸に顔をうずめ、堪えきれずに嗚咽をあげる。
こんなにも好きでもない人と交わす口づけが嫌悪感を抱くものだとは知らなかった。
今すぐ大好きな悠誠に上書きしてほしいと思う自分がいる。
「アイツ、澪依さんに何をしたのですか」
「……急に抱きしめてきたり、肩を抱いてきたり、口に――――」
その先は、悠誠によって封じられた。
彼の柔らかくて温かいものが、何度も何度も唇に触れる。いつもより少し乱暴だが、彼のお日様の匂いも相まって、ほっとしたら涙が再び溢れてきた。
「やっぱり、一人にするべきじゃなかった……」
「え?」
彼が何か囁いたが、小さく掠れた声でよく聞き取れなかった。
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