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前編
「花が落ちるのです。ただ一本の、白い椿の蕾だけが」
伝令の侍女が声をひそめた。
玲依は剣の手入れを止め、ようやく相手に向きなおる。ひとつに束ねた黒髪が宙をかき、灯火がほのかに揺れた。
「夜ふけに官舎まできて、花の話か。私は庭師ではない」
涼やかな細面に切れ長の目。
剣技の俊才とほまれ高い女武官は、膝元に据えた刃と同質の美しさをたたえていた。
侍女は萎縮したのか、寒気をくぐってきたせいか、あるいはほかの理由からか、丸い頬を染めた。
「病害ではありません。お庭の係を二度変えましたが、落花はつづいております。もう少しで咲くところになると、決まって翌朝に落ちています」
「血の通う手が散らしているのではないか。香春妃の白椿は、帝から贈られたものだろう」
玲依は淡い蔑みを込めて目を細くした。麗しき後宮に嫉妬と争いが絶えることはない。
だが侍女は、両手を握りあわせ訴える。
「昨夜は雪が降り、明け方にやみましたね。
今日落ちていた蕾に、雪は積もっていませんでした。何者かのしわざなら、朝早くに雪の上を歩いてきたはずですが……」
あるべき足跡は、どこにもなかったという。
「やはり、人ではないのです」
侍女は怯えた目で武官を見つめた。玲依は片膝を抱き、初めて興味を示したように視線を返す。
「女官長は、私に妖しきものを斬れと?」
「いいえ。落花の怪異を解き明かしていただきたいそうです」
「同じことだと思うが」
一瞬苦笑したのち、彼女は表情を引き締めた。
「承知した。仕度を整え、宮に参る」
寒さと闇がもっとも濃い時刻。
玲依は冷たい渡り廊に腰をおろしている。かがり火が揺れ、庭の前面をかろうじて照らす。
白椿は、広い庭園の端にひっそりと植えられていた。
若木であり、しなやかな枝ぶりはつつましい。
それにしては蕾の数が妙に多く、どこか均整を失っているように思えた。
「無事にひらいたなら、飾り気のない一重の花と会えましょう。香春さまによく似ておられると、大君がお選びになりました」
と、庭師の老翁が言っていた。
玲依が深くうなずいたのは、妃と言葉を交わしたことがあるからだ。
香春妃は、秋の始まりとともに入内した。
玲依も輿の警備に狩り出されたのだが、そこで一騒ぎがあった。
城の手前の大木が前ぶれなく折れ、行列めがけて太い枝が落ちたのだ。直撃は免れたものの、あたりは騒然となった。
その時、玲依は輿の後方にいた。
剣に手をかけすばやく進み出ると、小さな窓の御簾が開いていた。
薄暗い中から片方の目がのぞいている。
きめこまかな肌。優雅に流れるまぶたの線、濡れたまなざし。それだけでたぐいまれなる美貌が察せられた。
立ちどまった武官に向け、小さなささやきが漏れる。
「立派な木だと、思いましたのに……」
「お控えを。まだ危険が」
厳しく言った玲依は、身を寄せて姫を隠す。
香春はおとなしく御簾を下ろした。衣に焚きしめられた清楚な香りが残った。
そのような始まりだったせいで、
「あの妃には不吉の気がある」
と案じる声が宮中に聞かれた。帝の心が彼女に奪われてからも、そういったささやきは影のごとくまとわりついた。
椿の怪は、それを後押しするだろう。
暗黒に溶けた葉からぼんやり浮きあがる、丸い蕾の群れ。玲依は、見ているものに見られているような気がした。
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