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しかし、玲依が番を始めてから数日、不思議と怪異は治まった。
ひとつだけ蕾が落ちたが、それは矢のように舞い降りたツグミが枝を揺さぶったせいだった。
今日もまた陽の昇りを見届けた彼女は、廊を辞そうと立ちあがる。
すると突然、鈴のような声が鳴った。
「わたくしの花は?」
玲依はするどくふり返った。
つきあたりの戸が少し開いていた。
うす明るい中にあでやかな衣装がのぞいている。輿の窓ごしに会ったのと同じ、しっとり濡れた瞳が見つめてきた。
白椿の主・香春だ。
いつの間に戻ってきたのだろう、と玲依は驚く。
寵姫に怪異が降りかかることを案じた帝は、庭から離れた場所に仮の殿をつくらせており、香春はそちらに移っているはずだった。
彼女は不注意を恥じつつ頭をさげた。
「今朝の落花はございません。ご安心を」
それで終わるかと思いきや、香春は大きく戸を引き姿をあらわにした。
やわらかな裳を揺らして静かに歩み寄る。宝珠を散りばめた帯、かさねの綾なる襟元につづき、それらをかすませるほど輝く面があった。
「近い日に、咲けるかしら」
彼女は欄干に手をかけ、白椿に目をやる。儚げな顔立ちが朝日をうけ艶を帯びる。
玲依は、周囲を警戒しつつ後ろに控えた。
「そうであればよいのですが。庭師が、蕾が固まってしまったと申しておりました」
「まあ……」
香春が、なよやかな手を頬にあてる。
彼女には、たたずまいやしぐさの端々に育ちきっていない風情があった。一方ですらりとした肢体は成熟しており、不安定な魅力は蕾ばかりの木とかさなる。
大君は、魅入られているのではないか。
ふとそんな考えが湧いた。
「玲依。あの花が好き?」
いきなり名を呼ばれ、新たな驚きが生まれる。玲依は珍しく口ごもった。
「それは、咲いてみなければ……」
「そう」
妃が小さく微笑み、背を返す。輿で会った時とは違う甘い香がかおった。
部屋の戸がぴたりと閉まった、その時。
視界のすみで蕾が落ちた。
まるで見えない剣で薙ぎ払われたかのように、一切の音もなく。白い手毬を思わせ、付け根から宙へとはじけ飛んだ。
ふり向いた玲依は反射的に身を沈め、意識をとがらせる。
だが、異変はそれきり続かず、静かな朝の光が庭にさしこむばかりだった。
それから侍女や庭師、薬師が集まり、香春の殿はにわかにあわただしくなった。剣をたずさえた玲依は、庭全体をめぐり異常を探す。
が、何も見つかることはないと彼女は知っていた。
拾った蕾を手のひらに転がす。原理はわからないが器用に細工したものだ、玲依は感心した。
怪異など空言。自分を香春に近づけるための企みにすぎない……
「あの不吉な美妃を殺せ」
それが彼女に課せられた使命だった。
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