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闇夜に雪片が舞い始めた。
この夜、帝は新年をひかえた祭祀の儀を行っており、後宮は静まり返っていた。
玲依は白椿を横目にして廊下を進む。彼女がたどりつく前につきあたりの戸が開き、香春が微笑んだ。
「来て下さったのね。お入りになって」
しかし玲依の警戒は解けない。冷ややかともとれる口調で尋ねた。
「私に帯刀を許してよいのですか」
「あなたはわたくしを守ってくれるのでしょう?」
間近に見あげてくる妃の背後に、あたたかな光の満ちる部屋が広がる。
兵が控えている気配はない。二人きりだとわかると、それまでの懸念とは違う言いようのない不安が湧いてきた。
品よく飾られた部屋に膳が整っている。杯はふたつ。
客人を座らせた香春が酒壷を取り上げたが、玲依は手でさえぎった。
「任務中ですので」
妃は、気分を害するどころか楽しげに口もとを押さえる。
「思ったとおり。あなたは堅実な方」
と、無防備に背中を向け、棚から小さな白磁の壷を持ち出した。
「これはお酒ではありません。わたくしの故郷でつくっている甘露、花と果実の蜜です」
ゆっくりと壺をかたむけ、赤みがかった黄金色の液をそそぐ。甘いだけではない不思議な香りが鼻先をくすぐった。
「さあ、玲依」
すすめられては受け取るしかない。玲依は揺れる水面を見つめた。手がかすかに震えている。灯火が波に照り映える。身体の芯が冷えた。
「……なぜ私を呼んだのです」
「よく警護をしてくれるものだから」
「それだけですか」
「そうよ。ほかに理由が欲しいの?」
妃は少し戸惑った。それが演技であり、蜜に何かが入っていないと誰が言いきれるか。
玲依の手が口もとでとまる。
彼女はふと視線をあげ、香春へ杯を差し出した。
「香春さま。契りましょう」
「まあ、何を」
「お望みのままに」
玲依は挑むように相手を見る。
妃は嫣然として杯を交換した。彼女が蜜を飲み干したのを見届け、玲依も口をつける。甘露は爽やかな風味を持ちながら舌に絡みついた。
玲依を見つめた香春は、満足そうにささやく。
「思えば、輿入れの日から守ってくれましたね。欅の枝が折れてしまった時に」
欅は彼女の故郷に多く生えていて、懐かしさを覚えるのだという。
「あの時は寂しく思いました。ふるさとから別れを告げられたようで……」
うつむいた香春が、上目づかいで微笑む。
「あなたが来てから、花が落ちることも減りましたね」
武官は生真面目に首をかしげた。
「しかし、咲きもしません。奇妙にも蕾が閉じてしまったと、庭師が申しておりました」
「それでいいのかもしれないわ。ずっとこのままで」
「おや、大君がお悲しみになりますよ」
玲依は初めて笑顔を見せた。冷たい玉のような様相がゆるみ、うっすらと艶が浮かぶ。
香春は目を奪われ、夢を見ているかのようにぼんやりと語る。
「ひらいた花弁は雪より白いと、大君が教えて下さいました。わたくし、日がな一日眺めていたのです。本当に、あの椿だけが慰めでした」
「もう満足したとおっしゃるのですか?」
尋ねられた妃の頬が、急に染まった。玲依が声をかけようとすると、香春は泣きそうな顔になって告げた。
「……今は、あなたが」
彼女は言葉をきった。
黒い瞳が想いを込めて光る。
視線に射抜かれた玲依の中で、何かがはじけた。
大木に故郷をかさねれば、丈夫な枝が折れた。
心待ちにしていた犬の仔は畸形となった。
白椿の落花―― あれも細工などではない。まことの怪異なのだ。彼女のまなざしは邪の力となる。
それはいかなる時か?
愛するものを見つめた時に。
ぐらり、と視界が揺れた。
玲依の上体が前のめりにかしぐ。とっさに手をついたが、思うように力が入らない。必死に顔をあげると、涙を浮かべた香春が両手で口もとをおおった。
「ごめんなさい。少しだけあなたの時間をちょうだい」
「香春、さ、ま……」
酔いとも眠気とも違う、もったりと甘い空気がのしかかる。かたわらに置いた剣がとてつもなく遠かった。
崩れ落ちた拍子に膳にぶつかった。こぼれた露が手首を濡らす感触を最後に、玲依の意識はとだえた。
香春は、気を失った玲依を、息をつめて見おろした。
甘露の原液は秘薬になる。幼い頃から慣れ親しんできた香春に効力はないが、初めて口にした者は抗うことができない。たとえ鍛え抜いた武官であっても。
絢爛な敷物に伏した玲依は、広がる袖に頭をあずけ、悩ましく眉をひそめていた。艶のある唇が少し開いている。
そっと指を伸ばし、流れる黒髪をなでる。
顔にかかったひと筋をはらう。白い頬に指先がふれるとそれはなめらかだった。胸の高鳴りはとまらず、熱をはらんだ切なさが香春の肌を赤くした。
彼女は、二十年を生きながら恋を知らなかった。
一国の長に差し出され、深く寵愛されてもなお心は閉じている。伽は果たすべき義務でしかなく、情のない触れあいを時にわずらわしくさえ感じていた。
そして花が落ち、凛々しい武官が現れた。
香春は輿入れの日から気づいていた。
あの方は秘密を持っている。涼やかな表情の下に、暗く激しい思いを隠している。しなやかで強く、脆い心――
再会した相手は、白椿と同じものとして目に映った。
彼女は玲依にどうしようもなく惹かれ、やがて愛するようになった。
「玲依」
小さく名前を呼ぶ。そっとかがみこみ、力なく投げ出された手を握った。
引き締まった頬へ、ぎこちなく口づける。
それから、唇に。
互いに残っていた露の甘さがやわらかく交わされた。吐息に狂おしい思慕が香った。
「どうか、もう少し。もう少しだけ、あなたを見つめさせて……」
呪われた妃は愛しい花に視線をそそぎつづける。
( 了 )
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