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空咳がひとつ、障子の向こうから聞こえてきた。
つま先が冷え固まる感覚を確かめながら、1歩を踏み出す。全身が年の瀬を感じ始める。こたつでかじかんだ足を伸ばしてみかんを食べる。ちょっと酸味があって、美味しい。
暗くした部屋でわははとテレビを見ては、1人。
ぷつん。テレビを消して1人。空咳が聞こえたような、気が、した。
空咳が1つ。
鼻歌を口ずさみながら鍋をゆったりとかき混ぜる。だんだんお玉をマイクにして全力で歌う。ポーズをとった瞬間に黒い無機物になったテレビ越しの私と目が合う。
虚ろな空間に耐えられないのか、自分でもよく分からなくて、作り置きの卵スープを飲む。
「あっつ!?!?あちゃー、温めすぎたかぁ」
猫舌の私には熱すぎて舌がヒリヒリとする。小学校の頃から変わらない私に呆れちゃう。
「学習してないって、言われたもんね……」
笑われて悔しくて涙を零したことを覚えていた。だれも私のことを見てくれないなんて、思ったんだっけ。
お母さんは、いつでも私のことを見透かしていた。
私が必死に隠してた、辛い時にも嬉しい時にも歌う癖を当てられた時は怯えたっけ。
「あれから1年……か」
お母さんには到底及ばないけど、綺麗に畳まれた洗濯物の山。自分では、できた方かな。
空咳は2つ。
「今年1年、私、がんばれたかなぁ……?」
机の上に散乱した書類。年末締切はないな。よし。わからないやつも、なんとかできた。
さらに空咳が1つ。隣の部屋から。
「そういえば、今年は欠勤も遅刻もない!え!天才かもしれない?!」
空咳がさらに3つ。
そういえば、食器を洗うのって、お母さんみたいに食器に洗剤をかけるんじゃなくて、スポンジに洗剤なんだってね。
インナーも別に着なくていいらしい。
お母さんが苦しんでた遺伝した髪の毛は、そこまでひどいものじゃない。
化粧品も、お母さんの使ってやつをやめて、別のにしても肌は荒れなかった。
咳が大きく4つ。ごほ、ごほごほ、ごほっ!痛そうだなぁ。
苦しそうだなぁ。
鼻歌を歌いながらふと立ち上がり、換気扇の紐を引っ張ってから冷蔵庫を開ける。
卵3つ。白だし。すこしのおしょうゆ。牛乳。菜箸でシャカシャカと軽快に、歌に合わせて混ぜる。
よく混ざったら、熱した四角いフライパンに少し流す。寄せる。さらに少し液体を流す。ころん、ころんと寄せたものを流したての液の上を転がす。寄せる。流す。転がす。寄せる。流す。転がす。寄せる。
最後に竹でできたまくやつにぽんとおく。これ、なんて名前だっけ。最初は竹越しにフライパンの熱が伝わって火傷しないか心配だったっけ。
「これを切って、いただきます!」
口の中にじんわりと優しい甘みと出汁の味がする。
「おかあさん……。」
この味、いっつもおかあさんが遅刻ギリギリに私の口の中にほおってくれた、味。
おかあ、さん。
こほん。私から、と、隣から咳が1つ。重なったような気がする。
「お母さん。だいじょう、……ちがった。もう、1年だよ。私ってば」
「ひっ、ごほっ、ごほっ。おかあ、さ……」
そこから私は眠ったらしい。日差しを浴びて目を覚ますと新しい年を世間様は迎えていた。換気扇の音が、やけに悲しく響いてた。
あれ、今年は年賀状もらっていいんだっけ。そういえばそうだった。
「おかあさん。朝だよ。だし巻きたべよ。お母さんには、はい。ごはん」
手を静かに合わせる。小さく経を唱える。
こほん。空咳が1つ。
それから、空咳は聞こえなくなった。
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