最後に笑う人

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 街灯の周りだけが明るい外とは違い、部屋の中は煌々と白熱灯が照らしていた。  伊月はローテーブルに突っ伏したこの部屋の住人、莉奈の首に回す手により一層力を込める。  不倫関係にあった莉奈に別れを告げたのは1時間ほど前だった。妻が妊娠したことがわかったからだ。結婚して5年、夫婦で心待ちにしていた妊娠。不倫がバレて妻に心労をかけるわけにはいかない。3年前に妻と高校時代の同級生だという莉奈と関係を持ち始めた。それは、伊月自身、子どもができることを諦め始めたころ、たまたま妻に友人として紹介されて知り合った。妻とは決して不仲だったわけじゃない。  別れ話をしたとき、莉奈は逆上した。当然かもしれない。妻とは別れる。伊月は3年間、言い続けてきたのだから。莉奈とは平穏に別れられない、そう思ったとき、手が莉奈の首に伸びていた。  莉奈の首に手をかけてから数分が経っただろうか。どのくらい締めていれば死ぬのかわからない。妻には、残業をした後、同僚と飲んで帰ると伝えてある。それでも日付が変わる前には帰らないと心配をかけてしまう。自分の左手首にある腕時計を見た。23時45分か。  ここから家までは走ると10分ほどだから、もう少し、あと5分だけ、手をほどかずにいよう。伊月がそう決めたときだった。  ローテーブルに置いてあった自分の携帯電話が震えた。思わず体が反応して莉奈の首に回す手が緩む。伊月は手に力を入れ直しつつ、自分の首を伸ばして携帯電話の画面を見た。妻からのコールだ。無視しようと思ったが、同僚と飲んでいる設定で電話に出ないのも不自然だろうと考え直して、莉奈の首から手を離し、通話をタップする。 「もしもし。今、帰り道だよ」  電話の向こうで妻が欠伸をした。 「もうすぐ日付変わるし、酔い潰れてるんじゃないかと心配で電話しちゃった。気をつけて帰ってきてね」    伊月は通話が切れた携帯電話に向かって舌打ちする。  せめて日付が変わるまで待っててくれよ、子どもじゃないんだから。  大きく溜め息をついたとき、さっきまで伊月が首を絞めていた莉奈がむせた。伊月の心臓は強くはねる。ゆっくりと携帯電話から莉奈のほうへ顔を動かした。うなり声を発しながら、頭をあげる莉奈が目に映る。  くそっ。もう少し長く首に手をかけていれば……  助けを求めようと大声を上げられては困る。莉奈の口に手を伸ばした伊月は、その手を払いのけられた。莉奈が苦しそうに息を吐く。 「な、なに、して、くれるのよ。そ、んなに、わかれ、たいなら、わかれてやるわよ」  少しずつ莉奈の息が整ってくる。逆に、自分の起こした行動に怖ろしさを感じ始めた  伊月の息が荒くなる。心臓も破裂寸前かと感じるほど、大きく鼓動してきた。そんな伊月を見た莉奈は、ほんの少し右の口角を上げて、テーブルの上のシャンパングラスを持つ。 「最後に、さっき入れたシャンパン飲んでよ。乾杯」  伊月が手を伸ばしたグラスに、莉奈は自分のグラスを合わせてきた。莉奈が一口シャンパンを飲んだ。息が上がり、喉の渇きを感じていた伊月は勢いよくシャンパンを飲み干した。 「ぐ、ぐぇっ」  伊月は苦しみで目を剥きながら手を伸ばして莉奈に縋ろうとした。莉奈は、自分の手に持ったグラスに入った残りのシャンパンを飲み干していた。 「伊月、ずっと一緒にいようね」  伊月はローテーブルに頭を打ちつけて床へ転がった。  ローテーブルの上に置かれたままの携帯電話が震える。  通話できる人がいなくて留守番電話に切り替わった。 「もしもし、伊月。私。そう、電話に出ないんだ。ということは、さっきの電話はタイミングが良かったのかしら。莉奈と幸せにね。あ、そうだ。お腹の子ね、ううん、言わないでおく」
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