こども時代

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 そのとき、僕はまだ中学一年生だった。  呼び鈴が鳴って玄関のドアを開けると、下の階に住むアキちゃんが立っていた。 「よっ。漫画、読ませてよ」  彼女が僕を訪ねて来たのは久しぶりのことだった。僕の部屋に入った彼女は本棚を眺めて、「新しい巻あるじゃん。えらいえらい」と嬉しそうに言った。  四畳半の部屋の壁際、折り畳まれた布団をソファー代わりにして、僕たちはそれぞれ漫画を読み始めた。壁掛け時計の秒針がカチコチいう音と、ページをめくる音が部屋に響いて、なんだかぎこちない時間だった。僕は隣に座る彼女をちらりと見た。白いTシャツにデニムのショートパンツ。小学生のころから見慣れた服装だったが、このときはどこか違って見えた気がした。  ふと、彼女は畳の上に漫画を置くと、僕の方を向いて悪戯(いたずら)っぽく言った。 「ねえ、すごいこと教えてあげよっか」  僕が何か答えるよりも先に、彼女はポケットからスマートフォンを取り出して、少し操作してから僕に見せた。画面には誰かとのメッセージのやりとりが表示されていた。  ——いつ迎えに来れる?  ——たぶん、あと一週間か二週間。  ——何を持っていけばいい?  ——着替えを、持てるだけ。スマホは途中で捨てたほうがいいから、持って出るようにして。  僕が「これ、何?」と尋ねると、彼女は少しの間を置いてから、真面目な顔で答えた。 「私、家出するから」 「……冗談だろ?」 「本気だよ」 「……誰なの?この人」 「ネットで知り合った人」 「会ったことあるの?」 「ないけど、写真でなら」 「どんなやつ?」  彼女はまたスマートフォンを操作して、一枚の画像を僕に示した。整った顔をした二十代くらいの茶髪の男が、ふてぶてしい笑みをこちらに向けていた。 「こいつ、どこに住んでるの?」  隣の県の、そのまた隣の県を僕に告げてから、アキちゃんは「こいつとか言わないでよ」と付け足した。 「また帰ってくるんでしょ?」 「ううん、帰らない」 「……やめときなよ」 「なんで?」 「だって……危ないじゃん。そういう事件だってあるし」 「ほんの一部でしょ、あんなの。それに、ここにいるよりマシだから」 「なんで、ここにいたくないの?」 「それは……色々あるから」 「色々って何? 教えてよ」 「言いたくない」  突き放すような冷たい口調で言って、彼女は目をそらした。それきり、僕は何も聞けなくなった。また時計のカチコチいう音が聞こえてきた。やがて、彼女が(つぶや)くように言った。 「ここを出る前に、ケイ君だけには言っておこうと思って。それだけ。絶対に、誰にも言わないでよ」  そして、彼女は立ち上がって部屋を出ていった。僕は無言のまま彼女に(なら)った。何か言わなくちゃいけないはずなのに、頭の中は言葉の断片でぐちゃぐちゃに散らかっていた。玄関でスニーカーを履く彼女の背中を見て、ようやく完成した言葉が口をついて出た。 「……最近、走ってないの?」  それはきっと、ものすごく場違いな質問だっただろう。しかし、彼女は僕の方を振り返ると、ちょっと笑って「全然」と答えた。  その団地に僕と母が引っ越してきたのは、僕が小学校三年生のときだった。父が死んで、それまで住んでいた家を出ることになったからだ。僕の父は、たぶん、どこにでもいるような普通の父親だったと思う。毎日、僕よりも早く家を出て、僕よりも遅くに帰ってくる。夕飯のあとで、たまに缶ビールを一本飲む。一緒に風呂に入ると、僕の学校の話を聞きたがった。休日にはサッカーボールを持って公園に行き、ドリブルやリフティングのやり方を教えてくれた。しかし、仕事で車を運転していたとき、他の車が起こした衝突事故に巻き込まれて、父はあっけなくこの世を去った。  引っ越してきてすぐ、僕はアキちゃんと仲良くなった。彼女は僕より一つ年上の四年生で、僕と同じ(とう)に父親と二人で住んでいた。アキちゃんの父親は、僕の父よりもずっと歳をとっていて、口数は少なかったがいつもニコニコした温厚な人だった。……少なくとも、僕に対しては。  ある日、アキちゃんが僕の家に遊びに来た。何時間かして、わずかな数のゲームソフトにお互いが飽きてきたころ、彼女は僕に尋ねた。 「ねえ、ケイ君って、走るの好き?」 「別に、好きでも嫌いでもないけど……。なんで?」 「ちょっと外に行こうよ」  団地の裏手には川があった。僕はアキちゃんの後ろについて坂道をのぼり、川を見下ろす土手の上に立った。彼女は遠くに見える橋を指差して言った。 「あの橋のとこ、看板が見えるでしょ? ここからあそこまで、だいたい百メートルあるの。あそこまで、競走しようよ」  走れるだけの間隔を空けて二人が横に並ぶと、土手の上の道はほとんど幅いっぱいになった。彼女は屈伸運動をしたり手足をぶらぶらさせたりして、僕はそれを真似した。 「スタートは……ここね。よーいドンの合図は、ケイ君が言っていいから」  彼女は自信たっぷりに言った。もし僕が勝ったら、彼女はどんな反応をするんだろう? それが知りたくて、僕はワクワクした。 「よーい……ドン!」  僕は自分の合図と同時に走り出した。僕が優勢だったのは最初だけで、半分もいかないうちに彼女は僕を追い越した。ショートパンツから伸びた彼女の長い脚は、なにか野生動物のように(たくま)しく動いて、彼女の体を僕から引き離していった。ゴール地点で僕を待っていたのは、彼女の無邪気な笑顔と、空中に振り上げられた右腕だった。  僕はすぐさま彼女にせがんで、再度、同じ勝負をした。しかし、結果は変わらなかった。彼女は、自分がクラスで一番に足が早いのだと自慢げに言った。 「陸上部、うちの小学校にはないけど、中学校にはあるの。私、中学生になったら陸上部に入りたい」 「……じゃあ、それまでに、俺がアキちゃんを負かす」  僕が威勢よく言って、二人は笑った。  それからの数年間で、土手の上の勝負は何度も行われたが、結局、僕が勝つことは一度もなかった。僕の身長が少し伸びると、彼女の身長も伸びた。僕が少し速く走れるようになると、彼女はそれ以上に速く走った。  やがて、アキちゃんは中学生になると、かつて宣言した通りに陸上部に入った。しかし、不思議なことに一年もしないうちに退部してしまった。僕が理由を尋ねると、彼女は「面倒臭くなったから」とだけ言った。そのころにはもう、二人で土手の道を走ることはなくなっていた。  アキちゃんが家出をすると僕に告げてから一週間が経った。僕は毎日のように、始業前や休憩の時間を使って、彼女のいる教室を訪れていた。不自然にならない程度に歩く速度を落とし、廊下に面したガラス窓から教室の中を覗き見て、彼女の姿を見つけては胸を撫で下ろした。たいていの場合、アキちゃんは、誰かと喋ったりすることもなくポツンと席に座って、ノートか何かに目を落としていた。  終礼の時間が終わって、僕は校舎を出て部室棟に向かった。陸上部の扉を開けると、数人の部員が運動着に着替えているところだった。挨拶を交わし、僕も着替え始めたあたりで、二年生の山本先輩が僕に声をかけた。 「そういやお前、今朝、うちのクラスに用があったんじゃないの?」 「えっ?」 「いや、うちの教室を覗き込んでるように見えたからさ」  僕は自分の顔がわずかに熱くなるのを感じた。「たまたま通りがかっただけです」と答えると、幸いにもその話はおしまいになった。  着替えが終わると、僕たちはグラウンドの片隅でウォームアップを始めた。 「昨日、新しい動画、上がってたよ」 「マジ? 帰ったら観てみるわ……」  部の同級生たちは、ストレッチをしながら雑談に花を咲かせている。僕は話に加わる気が起きずに、なんとなく校舎のほうを眺めていた。下駄箱のところから、生徒が一人、また一人と出てきて、校門に向かって歩いてゆく。  ——あの人たちみんな、違うことを考えて、違う家に帰って、違う生活を送っているんだ。喜んだり、悲しんだり、悩んだりしながら……。  そう考えると、僕のまわりの世界が突然、広く、複雑になったような気がした。  僕はハッと息を飲んだ。校舎から出てきた生徒の中にアキちゃんがいた。僕の姿に気づくこともなく、彼女はひとり確かな足取りで校門へと向かう。僕の胸のあたりがキュウキュウと奇妙な音を立てた。彼女は校門をくぐり、僕の視界から消えてどこかへ行ってしまう。どこか、僕の知らないところへ、行ってしまう……。  僕は早退の理由をでっち上げて、部長に伝えに行った。  団地の建物が見えてきたあたりで、ようやく僕はアキちゃんに追いついた。早足で前に回り込んで声をかけると、彼女は驚いた顔をした。 「ケイ君……。今日は部活なかったの?」  僕は明るい声で「今日はサボり!」と言った。彼女がかすかに笑って、僕も笑った。隣を歩きながら僕は切り出した。 「あのさ、アキちゃんって、誰かにいじめられたりしてる?」  彼女の顔が曇る。 「……どうしてそんなこと聞くの」 「もしそうなら、俺がそいつらに注意してやるから」 「やめてよ。別に、大したことじゃないから。余計なことしないで」 「じゃあ、家出なんてするなよ」 「その話は、もう終わったでしょ」  彼女の声にわずかに怒りが混じる。僕はお構いなしに続けた。 「そんな知らないやつのところ、行くなって」 「じゃあ、ケイ君が養ってくれるの? 私のこと。一緒に家出してさ」  それは、思いもよらない言葉だった。アキちゃんと、一緒に……。僕の頭の中に、その先にある未来の様々な場面が浮かんできた。スーパーで夕飯の買い物をするふたり。テレビを観て笑い声をあげるふたり。雑誌を見ながら旅行の計画を立てるふたり。新しい家に荷物を運び込むふたり。同じ布団に入って手をつないで眠るふたり……。 「……する。一緒に、家出」 「いつ?」 「……」 「ほら、答えられない。テキトーな返事しないでよ」  二人の歩みは、もう僕たちの棟の入り口に差し掛かっていた。僕は言った。 「中学、卒業したら」 「それまで待てない」  アキちゃんは階段を昇っていく。僕はそれを追いかける。 「じゃあ……今すぐでもいいよ」 「どこで働くの? どうやってお金を稼ぐの? 子供だけで、どこに住むの?」 「……」  彼女の家の扉が見えた。 「こんなことなら、話すんじゃなかった」  そう言いながら、彼女は(かばん)からキーを取り出して、玄関の鍵を開けた。彼女の手がドアノブを握る。 「俺が持ってるもの、全部あげる! 漫画も、ゲームも……少ないけど、貯金もあげるから! だから……」  その先の言葉を、彼女は待ってはくれなかった。一瞬だけ僕の方を振り返ると、どこか寂しげな笑みを見せて、扉の向こうに姿を消した。  家に帰って、僕はスポーツウェアに着替えた。外に出ようとする僕に母が声をかけた。 「ねえ、今度の土曜日なんだけど。西田さんがね、三人で一緒に食事に行かないかって」 「……俺、部活だから」 「あんた、次の土曜は無いって言ってたじゃない」 「予定が変わったんだよ」 「そうなの? じゃあ来週はどう?」 「来週もダメ」  その次の言葉が聞こえないうちに、僕は急いで玄関を出た。  十月の初めの、少しだけ涼しくなった風が心地良かった。ジョギングの要領で土手の道をゆっくりと走っていると、ふと、さっきの母の言葉が頭の中で響いた。それから、一度だけ会ったことのある西田さんの顔が浮かんできた。  ——初めまして、ケイタ君。ぼく、西田って言います。お母さんの友達の……。  僕は速度を上げた。鼓動が早く、息が苦しくなってきて、それでも走り続けた。西田さんの顔はいつのまにか消えていた。    翌日、一時間目の授業が終わると、僕はアキちゃんの教室に向かった。いつものように廊下の窓から中を覗いたところで、僕の足が止まった。  アキちゃんの二つ後ろの席のあたりに、五、六人の男女が集まっていた。彼らはアキちゃんの背中の方を向いて、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべている。何か喋っている様子だったが、僕のいるところまでは聞こえてこない。集団のうちの一人が、プリント用紙をくしゃくしゃに丸めて、アキちゃんに向かって投げつけた。それは彼女の頭に命中すると、弾んでどこかへ消えた。彼女は後ろを振り向くこともなく、ただじっと席に座ってうつむいていた。  僕は教室の引き戸を勢いよく開け放った。扉が(わく)にぶつかって大きな音を立て、教室内の上級生たちが一斉にこちらを見た。僕に気づいたアキちゃんは目を丸くして、唇を小さく動かした。  彼女のほうを見ないようにしながら、僕は教室にずかずかと踏み込んだ。そして、例の集団の眼前に立つと、彼らを精いっぱい(にら)みつけて言った。 「だせえことしてんじゃねえよ」  彼らはわずかな間、呆気にとられた顔をしていたが、すぐにまたニヤニヤと笑い出して、互いの顔を見合わせたり、値踏みするように僕を見下ろしたりした。一人の男子生徒が言った。 「誰? お前」 「誰だっていいだろ。こういうの、やめろって」 「俺らの勝手だろ」  僕のすぐ近くにいた別の男子生徒が、「近寄んじゃねえよ」と言いながら、僕の胸をぐい、と手で押した。僕は何の迷いもなく、五倍くらいの力でそいつを押し返した。そいつは背後の机に勢いよくぶつかって、誰かのペンケースや教科書が床に散らばった。そいつは怒りをあらわにして僕につかみかかってきた。  教室の中は騒然となった。女子生徒たちは悲鳴をあげて、僕たちから距離をとった。何人かが僕たちを引き離そうとして、腕や体を押さえにかかった。その中に、陸上部の山本先輩の顔もあった。やがて、数人の見慣れない教師がやってくると、その争いはおしまいになった。僕は自分の教室に連れ戻された。  放課後になると、僕は担任の先生に連れられて、長テーブルにパイプイスが四つ置いてあるだけの小さな部屋に入った。 「二年生の子たちからも話を聞いたんだけどな、成瀬さんのことは、いじめてないって言ってるぞ」 「……嘘だよ、そんなの。だって俺、自分で見たし」 「紙くずを投げつけたことか? それは遊びだったんだと」 「アキちゃん……成瀬さんは、なんて言ってんの?」 「まあ……いじめられてるとは聞いてないな」  僕はその後も引き下がったが、結局、僕の早とちりだったということで幕引きになった。お互いの親には連絡しないということが唯一の救いだった。担任は別れ際に、「陸上部の先生には休むと伝えておいたから」と、思い出したように言った。  静かになった廊下をとぼとぼと歩き、僕は校舎を出た。グラウンドには、運動部の歓声がいつもどおりに響いていた。学校の外のコースを走っているのだろうか、陸上部の姿はなかった。今は、誰とも顔を合わせたくない。誰とも話したくない。ただ一人を除いて……。  校門のところに、一人の女子生徒が立っているのが目に入った。彼女は僕のほうに向かって、大きく手を振った。一瞬のうちに、僕の体がなにか暖かいもので満たされた。僕が駆け寄ると、アキちゃんは優しく言った。 「一緒に帰ろ」  歩きながら僕の頭に浮かんだいくつかの問いは、互いにぶつかり合って消えていった。沈黙を破るようにアキちゃんが言った。 「今夜、出ることになったから」 「……何時に?」 「二時。夜中の」 「そっか」  口の中でもう一度、「そっか」と小さく呟いた。 「俺がやったことって、余計なことだったのかな」 「ううん、嬉しかった。私のために、そこまでしてくれる人がいるんだって……。私、絶対に忘れないから」 「じゃあ、なんで……」 「お父さんがね」  それだけ言って、彼女は黙り込んだ。彼女の喉がごくりと動いたかと思うと、ようやく次の言葉を口にした。 「体を触ってくるの」  彼女は僕と反対の方に顔を背けていた。 「私は、お母さんの代わりにはなれないから……。それで……」  彼女の声が震えた。 「学校にいるのも嫌だし、家にいるのも嫌。だから、別のところに行きたい」  僕は何も言うことができなかった。なぜか、遠く離れた世界の出来事を聞いているかのようだった。彼女の父親の優しそうな顔がちらついて、それが奇妙に歪んだり元に戻ったりした。それからしばらく、二人はまた沈黙の中を歩いた。  団地のそばまで来ると、土手に続く坂道が見えた。僕は言った。 「ねえ、競走しようよ。最後に」  僕は学生服の上着を脱いで、(かばん)と一緒に草の地面の上に置いた。アキちゃんもそのすぐ横に寄り添うように鞄を並べた。  少しだけ準備運動をしてから、僕は言った。 「ここから、あそこの看板まで。スタートの合図は、アキちゃんが言っていいから」 「わかった」  そして、彼女の合図で二人が走り出した。彼女の姿は、あっという間に僕の視界から消えた。少しでも速く。少しでも前へ。全身の血管を何かが乱暴に駆け巡った。心臓が、肺が、筋肉が、僕の体のすべてが、僕を先へ先へと進ませた。  (かたわら)の草むらの中に、死んだはずの父が立っていた。父は優しい顔で、僕の走る姿を見守っている。僕は速度を落とすことなく、その横を通り過ぎた。少し先には、僕の母が、西田さんと肩を寄せ合って立っていた。僕はまたその横を通り過ぎた。その先には、アキちゃんの父親が、担任の先生が、喧嘩をした上級生が、小学生のころのアキちゃんが立っていた。僕はすべてを振り切って走り続けた。何も考えない。何も考えなくていい。大切な思い出も、嫌なことも、何もかも、周りの景色と一緒にどこかに流れていけばいい。  目印の看板の横を駆け抜けた。全身から一気に力が抜けた。歩いて息を整えながら、後ろを振り返った。  アキちゃんは遥か後ろを走っていた。風が吹いて、セーラー服のスカートが大きくはためいた。彼女は両手でスカートを押さえて、きゃあきゃあと悲鳴のような笑い声をあげた。長い髪がなびいて顔を覆うと、彼女はそれを手で払い除けながら、また笑い声を上げた。  突然、目の前の景色がぼやけ出した。ずっと先を走っていたはずなのに、なぜか僕のほうが取り残されたような気がした。その場に立ちすくんだまま、僕は涙をこぼした。  僕に追いついたアキちゃんは、もう笑っていなかった。目を潤ませて、僕のことをぎゅっと抱きしめると、「ごめんね」と言った。  もう、どうにもならないことは分かっていた。それでも、言わずにはいられなかった。 「行かないで」  彼女は小さく「ごめん」と繰り返した。  どのくらいの間、そうしていたのだろう。もう涙は止まっていた。僕は彼女の腕をほどくと、「帰ろう」と言った。彼女はうなずいた。  団地までの短い道のりを、二人で並んで歩いた。二人とも何も喋らなかった。僕の右手の五センチ先で、彼女の左手が何にも触れることなく静かに揺れていた。彼女の家の前まで来ると、どちらからともなく「バイバイ」と言って、それで終わりだった。    翌朝、僕はいつものように学校に向かった。彼女がいた席には、もう誰も座っていなかった。夜になってから彼女の父親が訪ねて来て、何か知っていることがあれば教えてほしいと僕にすがるように言ったが、僕は「何も知りません」と言い張った。彼女は家出をする旨の書き置きを残していて、警察もまともに捜査をしてくれないのだと父親は(いきどお)っていた。  しばらくの間、アキちゃんのことは学校で話題になっていたが、一ヶ月もすると誰も口にしなくなった。  僕が中学二年生になったとき、母が再婚した。僕たちは団地を出て隣の市に引っ越していった。学校も変わって、友達も変わった。走ることもやめた。高校生のときに初めての彼女ができたが、一年もしないうちに別れてしまった。  いつしか僕は大人になっていた。自分で金を稼いで、自分の好きなものを買って、自分の好きなところに行けるようになった。それでも……あの幼かった時代の思い出がときおり甦って、僕の胸にささやかな痛みをもたらす。彼女はいま、どこにいるのだろう。父親はどうしているのだろう。それはこの先きっと分かることはないのだと、僕は知っている。
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