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事の発端は、一カ月ほど前に遡ることになる。
魚介類加工品の輸入・販売を主とする会社で、営業事務の仕事をして三年になる千愛は、出勤早々トイレに駆け込む羽目になっていた。
――あ、っぶなかったぁ……。
いい年の女が漏らすとか、笑えもしない。少々ギリギリだなあと思いつつ、電車が来てしまったので我慢して乗ってしまったのが良くなかった。何やら、混雑によるお客様トラブルが発生したとかで、電車がゆるゆるとしか動かなかったのである。
なんとか耐え抜いて降車駅まで来たはいいが、今度はトイレがものすごく混雑している始末。朝のラッシュ時、同じようにトイレを我慢する羽目になっていた客は少なくなかったのかもしれなかった。おかげさまで、会社のトイレまでどうにかもたせる羽目に。始業時間にどうにか間に合っただけ、マシと言えばマシだけれど。
――今度からはちゃんと、余裕持って家出ることにしよ……トイレしてから。
せめてもの救いは、そのみっともない姿を誰にも見られずに済んだことか。手を洗って、鏡でもう一度髪と化粧をチェック。トイレを出たところで、千愛は自分達のオフィスの方に歩いていく人影を見て目を見開くことになったのだった。
すらっとした細身の長身。明るい茶髪に、父親譲りの青い目と白い肌。ハーフというより、欧米人に近いその青年の顔には覚えがあったからである。
「あれ?橘君?」
「!」
歩いていた彼は、はっとしたように振り返った。間違いない、大学時代の後輩、橘成都ではないか。同じ吹奏楽サークルに所属していて、さらに学部も一緒だった。サークル内では、そこそこ仲良くしていたという自負がある。スーツを着て歩いているということは。
「え、え?橘君、うちの会社に入ったの?というか、もしかして部署違うだけでずっと一緒の会社で働いてたとかいうオチ?」
思わず昔と同じノリで話しかけてしまった後で、迷惑だったかな、と気づいた。彼は明らかにオフィスに向かって歩いていたし、始業時間も近いので急いでいたのかもしれないと思い至ったからだ。
しかし、成都は眼をぱちくりさせた後で、“梅澤先輩!?”と目を輝かせてきたのである。
「え、う、梅澤先輩ですか!?この会社にいらっしゃったんですか!?」
「そうだよーう。私営業事務にいんの。橘君は?」
「俺、今日から営業部なんです。総務にいたけど、異動になって」
「あ、なるほどそういうことね」
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