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「――待って!」
わたしは少女の背中に向けて言った。
バスのステップに足をかけようとしていた少女が振り返り、その視線が虚空をさまよう。そして、なにかを諦めたように、そっか、と呟いた。
「ああ、やっぱり行けない。ごめんね、ヒロくん」
泣き笑い顔で少女は言った。それを聞いた彼が頷く。
さようなら、と彼の唇が動いた。さようなら。どうか、幸せに。
その言葉を最後に、バスの扉が空気音とともに閉ざされた。
「さっきの声……」
少女は言った。
「あなたは、誰ですか? もしかして、幽霊? おかげで、乗りそびれちゃいました」
淋しげな笑みを浮かべて、少女がバスの扉を指差す。少女には、わたしが見えているのだろうか。
「誰でもいいです。せっかくなので、独り言だと思ってきいてくれませんか? わたし、この町が嫌いです。彼がいないこの世界が、嫌いなんです。だけど、なかなか死ぬことなんてできなくて……きっと、あなたに引き止められなくても、わたしはバスに乗らなかったと思います」
わかるよ、と言いたかった。だってわたしはあなただから。自分までいなくなってしまうことで、この町に染み付いた彼との思い出そのものが消えてしまうことが怖いんだよね。
「でも、この先のことを思うと、不安でたまらない。わたし、上手に生きていけるのかな……幸せに、なれるのかな」
何が幸せなのかなんて、そうなってみないと誰にもわからない。だけど、少なくとも何が必要なのかは、わかる気がする。
わたしはこの場所で生きていくことで、大切なものを心に繋ぎ止めていたのだ。くすぶった青春も、色あせた恋心も、彼という存在も――わたしが正しく生きていくのに、どうしても必要な要素だったのだ。
「……大丈夫だよ。どこにも行かなくてもいい。あなたは、この町で生きていくの」
わたしは言った。気がつくと、少女の身体から光が蒸発していた。そして少しずつ、その光たちが空へと昇っていく。不意に頬に冷たい何かが触れる。見上げると、無数の粉雪が明滅する常夜灯の光と戯れていた。気がつくと少女の姿は消え去っていた。最後に彼女は、笑っていた気がする。
「さようなら」
わたしの声とともに、バスが走り出す。時が、動き出す。わたしはその黄昏の行方を最後まで見届けたあと、愛する家族が待つ我が家へと再び歩きはじめた。
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