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こくはく
師走――旧暦における12月の呼称。その由来は年の瀬が迫ると師範や僧侶が忙しくなり、それこそ東奔西走していたからという説が有力だそうだ。
私もこの説はよく言ったものだなと思う。もし、仮につけ加えることがあるとすれば、「師」でなくても忙しいことくらい。
実際、大学を卒業して社会人になってから4年、この仕事納めの時期がびっくりするほど忙しい。書類整理から始まり、取引先を訪問し――スケジュール帳はメモだらけでパンパン。自分でもよく読めるし、よく捌いているなと感心してしまうほどの量である。
そして今年も仕事納めの時期がやってきた。
午前7時、いつもより少し早めに出社してパソコンを起動する。それからまず、メールのチェックを始める。始業時間は8時半だけど、今のうちからやっとかないと絶対定時までにこの膨大な量を終わらせることはできない。今年最後の仕事だ。どうせなら定時退社したい。だから朝早くから躍起になっているのだ。
始業時間が迫ってくるにつれてぞろぞろと同僚たちがやってくる。
「おはようございます!」
元気よく挨拶をしてきたのはバディの佐々木。今年新卒で入社したばかりの社会人1年目……要するに後輩だ。
新人教育という名目で組まされたバディだが、12月にもなればもう教えることなんてほぼない。それに多少初々しさを残しているとはいえ、本人ももうそれなりにできるようになってきてる。だから今はもう会えば挨拶をするのと、たまに重要な取引先とかへ同伴するくらいだ。同伴にしたってほぼひとりでこなしてしまうから、本当にただ形式的に行ってるだけに過ぎない。
いい加減バディなんていらないだろって思えてくるけど、実は地味に必要だったりする。
それは新入社員にある程度ミスというものを覚悟しなければならないからだ。そのため責任を取る人間が必要になってくるわけだが。役職連中は責任を取りたがらない(まぁ、ひとりひとりの責任を全部取ってたら部署が回らなくなるというのはわからなくもないけど)。そこで適当な先輩社員を教育係にして、新人の責任を負わせているのだ。つまりバディを組んでいる期間は自分と後輩、合わせて2倍の責任を背負わされていることになる。どうせなら給料も2倍になればいいのにとか考えたりするけど、それは絶対にありえない。もう分かりきったことだし、とっくに諦めのついてることだ。それに私だってかつては先輩に2倍の責任を1倍の給料で負わせていたのだから、自分ばかりがぶーぶー言っていられる立場じゃない。
「おはよう。じゃあ、いつも通り仕事始めようか」
そんなわけで今日も挨拶を済ませたらそそくさと自分の作業に戻る。エクセルとワードを開いて今月までの報告書類の仕上げにかかる。
午前中、仕事は思った以上に捗った。やっぱり早めに出社したのは正解だったみたいだ。加えて「今日頑張ればお正月休みだ」っていう目標がもうすぐそこに居てくれることが、さらにやる気を助長してくれるのもあるだろう。
とりあえず今年中に片付けておきたいことはほとんど終わらせた。後は午後に佐々木と取引先に行って、その報告書を仕上げれば今日は定時に帰れそうだ。
ふと時計を見ると正午まで残り10分。順調だと思っていた――この瞬間までは。
「雪本、佐々木!」
課長が私と佐々木を呼び出す。それもかなりの怒声で。
その声にびっくりして一瞬頭の中が真っ白になった。それでももう一度「雪本ぉ!」と言われて我に返り、恐る恐る課長の机の前に行く。
「この報告書何だ? 何度やってもこんな数字にはならないんだが? 発注数か何かを間違えてるんじゃないのか?」
課長が手に持ってヒラヒラさせる書類。でも私には見覚えがないやつだ。そう、答えはひとつ。佐々木が作った書類だ。
「申し訳ありません。直ちに訂正いたしますので……」
頭を下げる佐々木。すると課長は私の方を見てため息交じりにこう言った。
「なぁ、頼むよ雪本。こういう仕事なんだから、少しのミスが命取りなんだ。それはお前もよくわかってるだろ? 新人がミスをするのは当たり前。確かに12月になって安心してたのはあるんだろうけど、バディなんだからちゃんと見てやらないと」
課長の言うことはもっともで、確かに私の監督不行き届きが招いた結果だ。だけど少しばかり不満だった。いくらバディとはいえ、そんな細部にまで面倒見れないって。
とはいえ、ここで食って掛かったところでどうしようもないのも事実。それくらいはさすがに理解しているつもりなので素直に頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした」
「まぁ、もうすぐ昼休みだし、急いで直さなくてもいいよ。その書類のやつまだ納期先だから。それより午後から先方に行くんだろ? そこで粗相のないよう、昼はしっかりと休んどけ」
最後にそう言うと課長は解放してくれた。
順調だと思ったのにな。こういうことが起こるとなんだか気分が下がる。せめてもの救いがあるとするなら、指摘してきたのがこの課長だったことだ。他の部署とかだと訂正の他に反省文だの、始末書だの書くように言ってくる上司がいたりするらしい。それを考えると、軽いお小言で済んだ上に猶予までもらえらのだからはるかにマシだろう。
「雪本先輩……すみません。俺のせいで先輩まで怒られちゃって」
いや、まったくその通りだよ――と言いたいのは山々だがそんな大人げない対応をできるはずもなく。
「まぁ……よくあることだから次からは気をつけてね」
そうやって明るく振る舞うしかなかった。
ちょっぴりブルーになった昼休憩をはさんで午後、後半戦に突入。その最初は今日一番の大仕事、佐々木と一緒に取引先での商談だ。何とか気持ちを切り替えとかないと。
スーツの上着を着て、書類を入れた鞄を持って、ホワイトボードの名札の横に「外出」と書かれたプレートを貼り会社を出る。
移動手段は電車。乗換えなしで2、30分ほど。
移動の間、ほとんど会話をしなかった。強いて話したことと言えば「商談をどんな感じで進めるか」といった軽い打ち合わせくらい。それも降車直前のほんの3分ほど。
「マモナク、都市急田園、都市急田園。オ出口ハ左側デス。都市急田園ノ次ハ、西田園ニ止マリマス。Arriving at Toshikyu-Denen――」
急かすような車内アナウンスに慌てて書類を片づけ、大した打ち合わせにはならなかった。
電車を降り、南口改札を出ると線路沿いにしばらく歩く。すると車両基地の手前に4階建てのビルが見えてきた。そのビルこそ今回の商談相手の本社が入る建物だ。
入口のインターフォンで担当を呼ぶと、数分もしないうちに担当がやってきた。
「本日はお忙しいところ時間を割いていただきありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。わざわざ来ていただいて申し訳ありません。さぁ、どうぞこちらへ」
簡単な社交辞令を交わし、建物の中へと招き入れられる。
エレベーターで3階まで行くと、広い窓のついた応接室に案内された。そこからは車両基地が一望できそうだ。
「どうぞ座ってください」
「失礼します」
担当にそう促され、ちょっぴり贅沢な椅子に腰を掛ける。そこから商談スタートだ。
「今日はよろしくお願いします。それで、先日お話させていただいた新しいバラストについてなんですが――」
商談は特にこれといった問題もなく終わった。
もともと、うちの会社は鉄道会社の下請けの保線業者にバラストやらレールやらを卸すのがメインの商社だから、あんまり商談に成功とか失敗とかがあるようなものじゃない。それでも、やっぱり新しい品物を勧めたりするときは上手くいかないことだってある。そんなことを考えれば上出来だろう――まぁ私は佐々木のフォロー役で来ていただけだからあんまり話なんてしていないけど。
「佐々木、お疲れ様」
会社へ戻る途中、佐々木にそう声をかけると、彼は緊張の糸が切れたようで、ふーっと大きく息を吐いた。
「緊張しますね。やっぱり……」
「まぁ、誰だってそうだよ。むしろ佐々木は上手くやってる方じゃないかな」
かな、とか曖昧な言い方をしているけれど、内心では出来すぎた後輩だと思っていた。少なくとも入社時の私に比べれば優秀すぎるから。時おり昼前みたいなミスをすることはあるにしてもだ。
会社に着くと早速課長へ報告し、その後は佐々木に委ねて私は自分の仕事へ。そこからまだ残っている仕事を片っ端から片付けていく。
「う~ん、ようやく終わったぁ……」
17時前――今日までに終わらせておきたかった仕事は一通り済ませた。パソコンの電源を落として、椅子に座ったまま思いっきり背伸びをすると達成感と疲労が同時に降り注いできて、一気に身体の力が抜けた。
定時になったと同時に荷物をまとめて帰ろうとタイムカードを押したまさにそのとき、まだ机に向かっている佐々木の姿が目に留まる。
「あれ、佐々木はまだ帰れないのか?」
そう訊くと彼は、「一応、今日の分は終わったんですけど、書類のミスを直してから帰ろうと思いまして。もう少し頑張ります」と小さく笑いながら答える。ため息交じりのって感じの笑顔で。
「あぁ、そうなんだ……」
そのとき私は良心が揺らいだ。彼を手伝うべきか、それとも帰るべきか。天使と悪魔がそれぞれ出てきて、それぞれ主張をして心に揺さぶりをかけられる。
天使の主張はこうだ。
『せっかく定時帰宅を手に入れたんだから帰りなさい。そのために今日頑張ったんだから』
なるほど。そう言われればそうだ。私は今日は定時あがりをしたいがために早く出社してきた。そして今、このまま帰ることだってできる。
一方、悪魔の主張はというと――。
『お前なぁ、バディだろ? ちゃんと面倒を見てやらなきゃダメだろ? それにこれでもう一度ミスが出てみろ、1周回って困るのは年明けのお前だぞ。因果応報ってやつだな』
なるほど。これはこれで筋が通ってる……ってあれ? こういうのって普通、悪魔が帰れって言うんじゃなかったかな?
『何を言ってるの? 天使は貴方にとって一番都合のいいことを言うに決まってるじゃないですか』
『そして悪魔はお前にとって疲れることを言う』
『『だから間違ってないんだ!!』』
私の小さな疑問に両者は吐き捨てるように答えると、心の奥底へと引っ込んでしまった。
天使と悪魔。それぞれの自分の言い分はよく分かった。そして私の選んだ答えは――。
「佐々木、私も手伝うよ」
――悪魔のささやきに耳を貸すことだった。
「えっ、そんな悪いですよ。雪本先輩に手伝わせるなんて」
「後輩の責任は先輩の責任。こんな時くらい先輩を頼りなさい」
戸惑う佐々木。でもそれを振り切って彼の隣にキャスター付きの椅子を持っていくと、1台だけ起動したパソコンに向かう。
「佐々木、雪本……残業もいいがくれぐれも無理だけはするなよ。それじゃあ、良いお年を」
課長がそう言い残して帰っていくのを背に、ふたりでエクセルと書類、それぞれ交互ににらめっこしていた。
次から次へと社員がいなくなっていき、とうとうフロア全体の電気が消された。それでも私と彼はまだ残って膨大な量の書類から1つのミスを探し、訂正をするように努める。
書類の訂正作業を何とか終わらせた頃には、時計の針が20時を指していた。
私がタイムカードを押したのが17時だから、およそ3時間のサービス残業。
「すみません……雪本先輩、こんな時間まで」
「いいって、いいって。それより仕事が終わったんだし帰ろっか」
似たようなやり取りを昼前にもした気がする。それでもあの時と違って、彼のミスを責めようとは思わなかった。本当に、心の底から――。
どうしてだろうか。あれだけ定時退社にこだわっていたはずなのに。3時間の残業、それもサービス残業だなんて。
佐々木が帰り支度をするのをエレベーターホールで待ちながら考えていたが……。
「お待たせしました」
結論を出す前に彼が来てしまったので、いったん考えることをやめた。
夜の街中を歩いていると、あちこちで屋台やら居酒屋がのれんをあげて賑わっている。それはいつもとは違う、年の瀬独特の空気をはらんでいた。
「先輩、もしよかったら飲みに行きませんか? この近くに良い店知ってるんですよ」
佐々木が道端の居酒屋を指さしながら言った。
いきなり言い出すからどうしたものかと思ったけれど、悪くはない。せっかく仕事も終わったんだし、後輩と飲むのだって。
「そうね……どうせ明日から休みだし、少しくらいならいいかな」
「ぜひご馳走させてください。手伝っていただいたお礼に」
あぁ、そういうことか。
謎はすぐに解けた。
「いや、大丈夫だよ」
「いえ、ここはお願いします! 俺のミスで先輩が怒られただけじゃなくて、サービス残業までしてもらっちゃって……このまま何もしなかったら、煩悩抱えたまま年越ししちゃいますよ」
まったく、律儀な後輩だ。断っても強引に押し通してくるとは。
たぶんこれは何度断っても引かないだろうと思った私は素直に「じゃあ、言葉に甘えさせてもらおうかな」とお願いする。
佐々木の案内してくれた居酒屋は「昔ながらの」と言った感じで雰囲気はかなり好きだった。私の実家が昔、居酒屋をやってた時期があって、それに近い内装で懐かしかったというのがその実だ。木製のカウンター席に座って、友達と濃いめのカルピスを飲ませてもらっていた――そんな小学生期が頭の片隅に蘇ってひどく懐かしかった。
あの時目の前にあったカルピスが今じゃビール……そう考えるとずいぶんと歳をとったように思う。
「先輩、遠慮せず飲んでください」
佐々木に促されるままビールに口をつける。
そこから彼とはいろんな話をした。仕事のことや出身、学生時代のこととか。それら全部ひっくるめていろいろ。
ただ、アルコールが回ってくるにつれて、私でも意識しないうちに饒舌になっていたみたいで。普段の自分なら絶対にしないような、かなりデリケートな部分まで口走ってしまっていた。
「――中、高、大とバドミントン一筋でやってきたからさぁあ。それで社会人になったら今度は仕事一筋でしょ~。あーあ、こうやって思うと私って全然恋愛をしたことが無いんだよねぇ。あーーーー、一度くらいマトモな恋愛してみたかったなぁ……」
恋愛の話なんて、こんなところで異性の後輩にするような話じゃない。それでもこの時の私は自制心という名のネジがアルコールという名の油によってすっかり抜け落ちてしまっていたらしい。何の躊躇もなく「彼氏欲しかったです」宣言を佐々木にしてしまっていたのだ。
「……俺は先輩のこと好きですよ」
みっともないところを晒していたにも関わらず、彼の答えはあまりにも意外なものだった。
「えっ!?」
サラッとではあったけれど、佐々木の言葉(こくはく)は私の耳を突き抜けて脳を直接突き刺した。
一気に醒める酔いからの一瞬の間。その間にいつもの自分が帰ってきて、さっきまでの私の言動をリプレイする。もちろん彼の発言も含めて。
「さ、佐々木……?」
何か言わなきゃと、脊髄反射で彼の名前を呼ぶ。ところがそれ以上言葉が出てこない。冷静になって続きを探そうとするのに、冷静になればなるほどこれまでの状況に冷静ではいられなかった。
すると佐々木が口を開く。
「俺っ……雪本先輩のことが好きでした――入社したときからずっと。だって先輩優しいんですもん。甘えさせてくれるとかそーゆーのじゃなくて。ただ単純に優しいんです。だから、そんな先輩が……そう……大、好きです」
いつも一生懸命な後輩だとは思っていた。でもここまで一生懸命でまっすぐな佐々木を見たのは初めてかもしれない。
私はこの時、自分の気持ちにようやく気がついだ。
私も……佐々木のこと、好きだったんだ――真面目で仕事熱心で、時々空回りもするけれど。それでも私に迷惑はかけまいと頑張る彼が。
「佐々木……私も佐々木のこと、好きだよ」
自然とでた続きの言葉。それは今まで気づかなかった一番素直な気持ちだった。
師走――暮れ行く年の中で、私は最初で最後の恋をした。
〈終わり〉
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