明日のときより

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「外国?」  素っ頓狂に問い返す俺にも動じず、台所に立つ明日乃のお母さんは炊事の手を休めなかった。 「大学の教授さんがね、本格的に研究に参加してみないかって誘ってくれたの。英文のメールだから読むのに苦労したわ。辞書なんか引いたの何年ぶりかしら」 「いや、そこじゃなくて」野菜の皮を剥く手が無意識のうちに止まる。「それで、明日乃はなんて答えたんです?」  明日乃のお母さんは振り返って肩をすくめ、「まだなにも。迷ってるのかもね。けど、年内にはあの子から返事が欲しいって」 「そう、ですか……」  近所に買い出しに行った明日乃のことを考える。 「うちは父親がいないでしょ。我慢もさせてばかりだったから、あの子のためになるなら背中を押してあげたいんだけど」  その気持ちは父親と二人暮らしの俺にもよくわかる。それでも突然の事に頭の中の整理が追いつかない。  手を止める視界の隅に、明日乃のお母さんの微笑みとも困惑ともつかない顔が映る。その真意を確かめる前に、彼女はまた料理を始めた。  明日乃はいずれ俺のそばを離れていく。いつまでも一緒にいられないのは承知しているつもりだったが、いざ現実感を帯びてくると自分の無力さばかりが身に染みる。  悶々とした日々の中、俺は明日乃と並んで噴水に座り、堅気とは思えない男性から逃げ、宇宙の戦士の物語について一席ぶつという日常を過ごした。  その日も物思いに深く沈んでいたのだろう。いつもの噴水で腰かける俺の顔を、明日乃が心配そうに覗きこんできた。 「きよりぃ?」 「ああ、悪い」笑顔を取り繕いながら答える。「帰り、なんか食ってくか? 奢ってやるよ」  一転して顔を輝かせる明日乃を連れ、俺は駅前のファストフード店に入った……まではよかったのだが、すぐに壁のメニュー表と自分の財布の中身とを見比べるはめになってしまった。 「なあ、明日乃」中身の寂しい財布から顔をあげる。「ポテト……と水でいいか?」  一瞬きょとんとした顔を見せたものの、明日乃はすぐに鞄から財布を取り出した。カエルのキャラクターをあしらったガマグチで、パンパンの中身のせいで留め具が弾けそうだ。心なしかカエルも涙目になっているように見える。 「うはうは」  明日乃は不敵に笑ったが、俺も奢ると言った手前、後には引けない。 「しまっとけって。席とっといてくれ。とにかく人前で財布なんか出すなよ」  明日乃を送り出して列に並ぶ。客入りの落ち着く時間帯なのか、後ろには誰もいない。  あの財布は小銭ではなく、折り曲げた札束を入れたような形をしていた。研究支援の謝礼として大学からお金が振り込まれていると聞いたが、どうやらかなりの額のようだ。  大金を持ち歩く明日乃の神経も信じられないが、なにより俺を動揺させたのはお金自体の存在だった。  明日乃の具体的な貯金額こそ知らないが、きっと外国で生活できるぐらいに充分な蓄えがあるのかもしれない。あるいは多額の謝礼は、さしずめ明日乃への先行投資といったところなのか。  いずれにせよ諸々の条件が揃ったいま、外国に行くかどうか、あとは明日乃の気持ち次第ということになる。  もう、あまり時間は残されていないのかもしれない。
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