明日のときより

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 私鉄沿線の小さな駅前広場だって、それなりに人通りはある。  涸れた噴水の縁に座っていた俺は文庫本から顔を上げると、そんな往来に視線を注ぐ隣の明日乃(あすの)を見た。  眉間にしわを寄せていた明日乃だったが、やおら下唇に当てていた鉛筆を前に指して言った。 「もじゃもじゃ」  HBの芯の先には色黒の兄ちゃんがいた。歩調に合わせて揺れるドレッドヘアにも負けない毛量のヒゲが、あごにモジャモジャと生えている。 「もじゃもじゃ」明日乃が繰り返す。 「よせよ」  たしなめる俺を無視して今度は母親に手を引かれて歩く幼児を指し、「よちよち」と言う。  俺も険しい表情をほどいて思わず頬を緩めてしまったが、明日乃が次に示した人物を目に思わず青ざめた。 「つるつる」  そう言って明日乃が鉛筆を向けたのは強面の男性だった。  ピンストライプの入った極彩色のスーツに身を固めたサングラス姿は勤勉なサラリーマンとは言い難く、冬の日差しをはね返す毛髪の無い頭部がそれに拍車をかけている。 「つるつ――」 「やめろって!」  明日乃の口と手、どちらを押さえるべきか考えあぐねていると、男性がサングラスをずらしてこちらを見てくる。怒っているのかどうか、表情を浮かべていないのが遠目にも恐ろしい。  男性がこちらに近づこうとするのと俺が立ち上がるのとは同時だった。  荷物をまとめると男性が持つセカンドバッグよろしく明日乃を小脇に抱え、俺は広場から一目散に逃げ出した。  バッグが肩に食い込み、握りしめた文庫本の頁にしわが寄る。駆けるたびに跳ねる明日乃の長い髪が鼻をくすぐり、フレーメン反応を示す猫みたいな顔になってしまう。  かたや明日乃は事態の緊急性には一昨日の株価指数ほどの関心しかないのか、ぼんやりとした顔のままだ。  そういえば、こいつが感情をはっきり見せたことってないな。息を切らしながらそんなことを考える。  二人分の荷物と、小柄とはいえ同い年の女の子一人を抱えた俺は駅舎に沿って走ると、線路を跨ぐ陸橋を渡った先でようやく足を止めた。 「馬鹿なのか? 馬鹿なんだろうな! じゃなきゃあんなワイルドを通り越したヤバめなオジ様に喧嘩売るような真似しないもんな!」息を整えて明日乃に詰め寄る。「おい、聞いてんのか?」 「ぽよぽよ」 「ああ!?」  俺の必死さなどどこ吹く風の明日乃の視線を追うと、すぐそばを女性が通り過ぎていく。前を開けたコートから、身体の線にそったニットに包まれた胸がポヨポヨと弾んでいる。 「おおぅ……」原材料不明の柔らかさを目に思わず嘆息してしまうが、「だから聞けよ! どんだけやばかったかわかってないだろ!」 「むちむち」  まだ言うか! ムチムチってなんだ? あの女性のお尻か? ヒップか? 臀部なのか!?  欲望に抗えずに振り返ると、女性とすれ違うように太めの男性がこちらにやってきた。アニメの美少女キャラのプリントTシャツの裾から、ムチムチと立派な腹がはみ出している。 「むちむち」  明日乃が繰り返すと、流れる汗を拭きながら男性が会釈してきた。俺も挨拶を返し、それからがくりと崩れ落ちた。 「きよりぃ?」  明日乃が訊ねてくる。清利(きよとし)という名前の俺を、こいつは小さい頃からそう呼んでいる。 「すげえ疲れた」  俺は文庫本をしまい、鞄から飛び出した明日乃のノートを拾った。ノートには俺の知ってる数字を組み合わせた、俺の知らない数式が所狭しと踊っている。 「帰ろうぜ」  差し出されたノートを受け取り、明日乃がこくりと頷く。  幼馴染の真名瀬(まなせ)明日乃は、いつもこんな感じだ。
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