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用意は万全。
やれることはやった。
嫌でも高揚する気分に外気の冷たい空気は心地よかった。
もっともっと肺に吸い込んで、冷たくなって、染み込んで、頭の芯まで冷やせたらいいと思った。
イヤホンからはどうやら食事を終えて、兄さんが千鶴にドレスを着替えさせているような会話が聞こえていた。
──さぁ、千鶴立って。
あのドレスを着せてあげよう。
ベールもちゃんと付けて。
髪も結ってあげよう。
それは人形遊びに熱中しているようにも思えて、何だか不気味に思えた。
「それでも。此処まで来て帰る選択肢はないけどね」
そんな言葉と共に僕はゆっくりと、兄さんがいる別荘の扉に鍵を差し込み、慎重に慎重にドアノブを回して中にはいった。
室内は昨日と違って温かみがあり、何だか微睡んでいるような空気が漂っていた。
僕はそのまま慎重に音を立てずにリビングルームに近づき、此処まで来るとイヤホンからじゃなくても直接耳に声が届いていたので、イヤホンを外して物陰からそっと様子を見た。
そうすると、暖炉の前に正しく人形のように佇むあのウェディングドレスを着た千鶴がいた。
顔色は青白く、痩せた気がする。
でも髪や顔はしっかりと整えられて。
瞳だけが血の通った存在を象徴するかの如く輝いていた。
でもそれは幽鬼のようで。
ちょっとぞっとするような美しさだった。
そして兄さんがひとしきり頬や髪を触りながら恍惚気味に千鶴を褒めていた。
──僕の千鶴に勝手に触らないで欲しいなと、思う反面、今、べっとりと千鶴に引っ付いている様は丸腰だと思った。
周りには凶器はないと思われた。
褒めて、褒めて、兄さんがいよいよ千鶴にキスをしそうになった瞬間、僕は手袋越しに、大きな拍手をして物陰から踊り出た
「誰だ! って、女……いや。そんな悪趣味な事をするのはお前しかいないか──光」
「あ、バレた。でもお互い様じゃない?──明」
わざと兄さんを呼び捨てにしてやった。
分かりやすいぐらいに兄さんは眉を顰めた。
女装趣味は俺にはないと、吐き捨てられた時点で僕はウィッグは用済みだとさっと取った。
1秒でも2秒でも時間稼ぎになったら重畳。
あと、僕的に『何故ここに居る』とかベターな事も聞かないのは流石かなと。
そんなの聞いても仕方ない。
怒気に溢れて居るが頭はまだまだ冷静だな、とか──そんな兄さんを見つめつつ、千鶴にも気を配った。
そこで、僕は何ヶ月振りかに千鶴の視界に入った。
やっと会えたね、千鶴。
遅くなってごめん。
そんな思いが胸に溢れたが、言葉に出来なかった。言ってしまえば気が緩みそうになった。
それはまだ早いと思った。
ただ、僕は笑顔を千鶴に向けた。
それでも千鶴の表情は固く凍りついたままだったが、しだいに身体が小きざみ震えだした。
ペールピンクに彩られた可憐な唇が戦慄くだけで
声は出なかった。
つらい目にあったんだと思った。
何と声をかけようか迷ったが。ただ端的に。
「千鶴はやっぱりいつでも可愛いね。好きだよ」
そんな普通の事しか言えなかった。
そうしたら千鶴は瞳を潤ませながら僕に一歩、歩みよろうとした瞬間、兄さんの胸の中に収まった。
兄さんは片手で千鶴を抱きしめながら。
「結婚式の邪魔だ。人の妻を誘惑するな。それに──お前は呼んでないから帰れ」
いつか、僕が吐いた言葉に復讐された気分だったが、そんな言葉で帰る訳がなかった。
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