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兄さんも流石にその声量に驚きを隠せなかったようで、引き金を引くことなく腕の中の千鶴を凝視していた。
そして、千鶴の方が素早く動いた。
それは人形から人間に戻ったような動きだった。
千鶴はそのすきを見逃さず、兄さんが持つ猟銃を──掴み、あろう事か両手で銃身を持ち、自分の胸に押し付けた。
暴発したらどうするんだ。
離れてと、言いたかったが、僕はそのあまりの光景に驚いて何も言えなかった。
何故なら千鶴は狂ったように頭を振乱し、綺麗に整えられた髪を乱し、ベールも振り落として「やめて」を繰り返した。
「やめて、やめて、やめてっ! お願い、もうやめて!」
「ち、千鶴、お前っ……」
そして、やっと反応した兄さんが銃を取り上げようと両手で銃を掴んだのに、千鶴から銃を取り上げられずにいた。
むしろ、ぴくりとも動かず銃口は千鶴の胸に押し付けられたままだった。
ぴしり、びきり、と何か異質な音がした。
よく見ると、千鶴が銃身を掴む指先が赤くなっていた。よっぽどの力を入れているのか爪が割れて血が滲んでいた。
──さっきの音はこれかと思った。
「千鶴、危ないから離せっ」
「いや、絶対にいや!」
そこで、千鶴がようやく顔を上げて兄さんを、そして涙に濡れた瞳で僕を見て──また、瞳から涙が溢れた。
このときになって僕はようやく本当の千鶴と再開出来たと思った。
そして、千鶴がまた兄さんに視線を戻してはっきりと喋った。
「明、ごめんなさい。私は光を愛してる。明とは生きられない! でも、私は明の愛に、優しさに縋りつきたくなった。もしかしたら、本当の夫婦になれるかもと思った、夢見た!」
「だったら──そのまま夢を見続けろ!」
「夢は夢よ。いつか覚める! だから、こんな事は終わりにしましょう。──明、私を殺して」
「なっ」
そこで初めて兄さんが動揺した。
「千鶴、そんなのダメだっ!」
僕も動揺しながら叫んだが、千鶴の耳には聞こえてなかったのか、ただただ兄さんを見つめて──優しく微笑んで。
「明、こんな私を愛してくれてありがとう。嬉しかった。でも一緒には生きれない」
兄さんはそこで、ふと銃身を離して呆然と呟きながら一筋の涙を流して。
「千鶴は俺とは生きてくれないのか……」
そうして静かに、震える手で千鶴の頬に愛おしいげに触れた。
その手に千鶴の涙がいくつも落ちた。
「──ごめんなさい。でも、かわりに。私の身体を全部上げる。もう、心と身体がバラバラになりそうなの。だから、本当にバラバラになる前に私を上げる。私にはこれぐらいしか出来ない。そして、光──」
千鶴は銃身を未だ離さず、ゆっくり首だけをこちらに向けて、いつか見た──そう、プラネタリウムで見たあの涙を堪えた笑顔を僕に向けて。
「来てくれてありがとう。一目見れた。会えた。もう、私は思い残すことはない。私の光は胸に居る。本当にありがとう」
「ち、千鶴っ! 何を言ってるの。僕は此処に居る。そんな、そんなッ」
別れの言葉はやめてくれと、口の中がカラカラで舌がもつれて。最後まで言えなかった。
しかし、千鶴はさっと兄さんから離れ、銃を持ったまま片手で暖炉の横にあった着火剤を手に取った。
「!」
嫌な予感に背中に冷たい汗が流れた。僕が思わず駆け寄ろうとしたが、千鶴が銃を僕に向けた。
「来ないでっ!」
思わず、歩みを止めてしまう。
銃に対する本能的恐怖で身体が竦んでしまった。
千鶴はそのまま僕を銃で牽制しながら、床に着火剤を撒き散らして、暖炉から燃える薪を手に取った。
「に、兄さん、お願い千鶴を止めて!」
しかし、兄さんは呆然として動く気配がなかった。
その間に千鶴は床にまるで、ブーケトスをするようにふわりと薪を投げた。
その瞬間にまるで僕と千鶴を遮るように炎の壁が出来た。
そして炎の壁の向こうで千鶴はにっこりと笑って。
「どうか幸せに」
そうして再び、動かない兄さんにその銃を握らせて。
自らの心臓に銃身を定めて。
「明、ごめんね。この心臓をあげるから。どうか許して」
その一言でやっと兄さんがゆらりと動いた。
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