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そうしてゆっくりと兄さんがゆるりと引き金に指をかけた。
「兄さん、馬鹿な事はやめろっ!」
僕は叫ぶが。
その間にも。
炎が広がる。
煙を上げる。
異臭がする。
そして熱い。
視界が瞬く間に赤く、黒く塗りつぶされていく。
兄さんと千鶴の背面には確かバルコニーがあったはず。
そこから逃げてくれたらいい。
それなのに、二人は見つめあったまま動かなかった。
「もういい、分かったから千鶴! 兄さんも千鶴も逃げてっ!」
消化器はどこにあったけ。
消防署に連絡を。
警察はまだか。
頭がぐるぐるする。
煙で涙があふれる。
涙で景色が滲む。
僕だけでも退避するべきだが──。
二人を置いて逃げれない。
この結末を見届けないと一生後悔する。
そして、愛する人を置いて何故僕だけが逃げなければならないのか。
僕はただ千鶴に必死に呼びかけた。
「千鶴、頼むから生きて!」
僕は力の限り叫んだ。
ピクリと兄さんが反応した。
そうして兄さんが次こそ狙いを定めるように銃を構え直した。
そこでようやく千鶴は銃を離した。
ふわりと両手を前に差し出した姿はまるで殉教者のようだった。
「っ!」
僕の脳みそが勝手に血に染まるウェディングドレスの千鶴をイメージしてしまい、熱いのにゾッとした。
そして火薬の炸裂する音──は、いつまでしなくて。
かわりに兄さんが今度こそ千鶴から銃を奪いバルコニーの方に向かって投げつけた。
ガシャンと音がして、窓から新鮮な空気が入り込み、一瞬清涼な空気を吸えたが──炎はより猛り狂った。
そして、戸惑う千鶴をそのまま抱き抱えて、あろう事か僕に向かって放り投げた!
「───っ!」
ドサリと千鶴が床に転がり、僕は駆け寄る。
「千鶴!」
炎の壁を超えて千鶴は僕の元に返ってきた。
だけども千鶴はぐったりとして動かない。
しかも、ウェディングドレスに火が移り、裾が燃え出していたので僕は慌てて服を脱いで炎に被せて足で踏み抜き、鎮火させるのに必死だった。
鎮火を確認して、ズルズルとまだ火の手が上がってないダイニングルームの入口付近に千鶴を移動させた。
「千鶴おきて! 大丈夫っ!? しっかりしてっ」
僕は千鶴に必死に声を掛けたが、千鶴は気を失っているようでピクリともしなかった。
ただ、僕の腕に戻って来た千鶴は哀しいくらいに痩せていた。
でも生きている。
それだけで十分だと思い僕は抱きしめて、兄さんを見た。
兄さんは炎の壁の向こうで静かに佇んでいた。
僕はもう何も言えなかった。
兄さんは落ち着いた様子でジーンズから煙草を取り出し、そのまま近くにあった炎から直接煙草に火を付けて美味そうに吸い出した。
場違いだが、それはとても格好いいと思ってしまった。
そして兄さんが。
紫煙を一つ吐いて。
僕を見てただ一言。
言った。
「じゃあな」
瞬間、タイミングよくバリンと暖炉の近くにあった窓が割れ、カーテンレールが燃え落ちた。
また炎が勢いを増した。
もう、これ以上はここに留まれないと思って紙のように軽い千鶴を抱き抱えて脱出を決めた。
千鶴を抱きしめながら、僕は未だ動かない兄さんに叫んだ。
「死ぬなんて、絶対に許さないからなっ!」
そうすると兄さんは炎の中で、苦笑しながら手をひらひらと手を降った。
それが僕が見た兄さんの最後の姿だった。
そこからはもう無我夢中で、汗だくになりながら千鶴を抱えて玄関に向かった。
「こ、こんな所で死んでたまるかっ」
玄関までの一歩一歩が遠かった。
背後で燃え盛る炎が怖かった。
迫りくるう煙に身体が震えた。
喉が痛くて涙が溢れた。
死ぬかと思った。
でも、生きる。
生きてやる。
絶対に千鶴と生きる!
だから、兄さんも生きろよ。
こんな所で死ぬな。
ふざんけな、ふざけんな。
僕の兄さんならまた千鶴を奪い返すぐらいの気概を見せろ。
「はぁ、はぁ。でも……絶対に渡さないけどねっ」
そうやって僕は己を奮い立たせてどうにか玄関に辿り着いて、転がるように外に躍り出た。
外は明るい月が浮かんでいた。
冷たい空気は心地良かった。
夜の冷たい空気を肺にいっぱい吸い込み、噎せそうになるがどうにか千鶴を火の届かない木の根元まで運ぶ事に成功した。
そこでようやくサイレンの音が聞こえた。
「遅いよ……クレーム入れてやる。ね? 千鶴もそう思うでしょ?」
僕は手袋を脱ぎ捨て千鶴のその痩せた頬に触れた。
出来るだけ優しく触れる。
そしたら千鶴が。
『もう、光ったら』
と、あの困ったように優しく微笑んでくれる気がしたが。
僕はその微笑みを見ることなく僕はその場に、千鶴の膝の上に倒れ込んでしまった──。
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