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「うまい!」
茶碗のなかの飯を夢中でかっくらった。
母さんは日頃澄ました顔でほかほかのぶり大根を食卓に出していたが、こっそりこんな食べ方を楽しんでいたのだろうか。
父さんにも僕にも秘密で、ひとりきりのダイニングでぶり大根飯を掻き込んでいたのだろうか。
僕にお行儀を仕込んでくれた母さんは、誰よりも上品だと思い込んでいた。
一粒残すことなくごはんを食べ終えると
「あー、美味しかった!」
と言って一息ついた。満足した、至福のひとときであった。
「母さん、美味しかったよ」
「でしょう? 智。教わった通りにきちんと真面目に味わうことはとても大事なことなの。でもそれよりもっと大切なことは……」
母さんは続きを言わなかった。不意に、こころのなかに染み入るように、悲しみが押し寄せてくる。母さんがいまここにいるということは……。ここにいるってことは……。
どうか、どうか、お願いです。もう少しだけ、もう少しだけ……。
「母さん、もっと大切なことってなに?」
涙声になりそうなのを抑えて、母さんに明るく尋ねた。返事はない。
恐る恐る、机の下を覗き込んだ。そこには誰もいなかった。
ただ、母の茶碗と箸がきちんと置いてあるだけであった。茶碗はぶり大根飯を食べ終わったときのように汁で汚れていた。
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