ハルシオン〜図書館の幽霊探偵〜

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 この頼りないまでに薄く、透明な壁の中がぼくの国だった。  休み時間の喧噪に突かれて、大きなシャボン玉のようにふわふわと揺れる壁。ぼくはその中に立てこもり、ひたすらに手元の文庫本に目を落とす。 「ねえ、ちー子。センパイ卒業しちゃうよ」  右側の壁がべこっとへこむ。  隣の席の女子の周囲に集まった、取り巻き達の声だ。 「告るって話どうなったよ?」 「イヤイヤ、だってほら先輩大学決まってなかったし!」 「でも受験終わったっしょ」 「そーだよ、最初は修旅から帰ってきたらっつってたのに」 「そん時はなんか同学の人と付き合ってるってウワサあって。つかアレマジなんかなー」 「でもワンチャンあるかもよ? 先輩、絶対妹系好きだもん。アンタ、絶対タイプ」 「マジ? えっ、マジっすか!?」  きゃあっ、と甲高い歓声が耳をつんざく。近くにいるぼくなどおかまいなしだ。痛む鼓膜に眉をしかめ、ぼくは内心で舌打ちをした。  ――内心で、のはずだった。  しかし知らず知らずのうちに固く結んでいた唇は尖り、気がつけばちっと舌が鳴っていた。  鋭い視線が一斉にぼくを貫く。  誰にも聞こえない破裂音を立てて、ぼくの防壁はあっけなく弾け飛んだ。 「何、アイツ、うざ。てか、いたんだ」 「つか、いっつも何してんだろ。本とか……ぷっ」 「アタシ、隣だから知ってるよ。ガリ勉ぶってるけど、あれ萌えっぽいマンガ描いてあるやつ」 「げっ、オタクっすか」  かっ、と体が熱くなるのを感じた。  だがぼくは立ち上がるでも怒鳴りつけるでもなく、ただ本の両端をぐっと握った。親指の爪が真っ白になるまで。  単純なことにそれで気が済んだのだろう、女子たちはまた雛鳥のようにせわしなく口を開閉し始めた。  何事もなかったかのように、教室は喧噪に包まれていく。祈るような気持ちで時計の長針を見やる。あと八分。ぼくは床に散らばった透明な破片をかき集める作業にただただ没頭した。  私立の高校で、持ち上がりの友達もいない。  しかもエスカレーター方式の学校で、中学からいる奴らが大半を占める。  そんな中、教室の一部の空気が妙にそわそわしていたのを覚えている。ぼくと同じ、高校から入学してきた――クラスに十数名いるグループだ。  一番最初のホームルーム、先生がやってくる間、誰かからか、隣や前後のクラスメートに声をかけ始めた。それがさざめきになり教室を満たしていく。そんな中、ぼくはじっと俯いていた。元々、人と話すのは苦手だ。趣味も性格も分からない、名前すら定かではない人間と何を話せというのか。  それに、話しかけられる方ならまだいい。けれど、一人になりたくない、一刻も早く友達が欲しい――そんな浅ましい思いと共に、へらへらと初対面の同級生に媚びへつらうような真似は絶対にしたくなかった。  気がつけば前後左右のクラスメートはそれぞれぼくに後頭部を見せて、誰かしらと言葉を交わしていた。ぎこちない、けど楽しげな笑い声も聞こえる。ぼくは顔を伏せ続けた。見えない触覚のようなもので周囲の様子を感じ取り、そこから――今思えば恥だが――僅かな期待を振りまきながら。  けど、自分のことに必死な人間が、誰かを気遣うことなど万が一つにもない。  気がつけば、こうなっていた。  ――友達がいない。  そういう人間はこの学校という一つの国において、最底辺の存在として扱われる。  周囲に溶け込もうとしない異端者。協調性のない社会不適合者予備軍。しっかりとした言葉にはしなくても、そうした視線を送り続けられる。  ある人は「子供にはそれぞれ個性がある」のだとして正当化する。ある人は「自分のペースでゆっくり馴染んでいけばいい」と欠伸が出そうなことをのたまう。  ぼくは思うのだ。――何が悪い、と。  友達がいない。だから何だ? 何がいけない? 友達を作らなきゃいけない法律でもあるなら言ってみろ。学校で「浮いている」だからどうした? そういう奴らがみんなもれなく犯罪者になるわけじゃあるまいし。  それに「浮いている」とは言うが、むしろ「沈んでいる」――そう言って欲しい。深く深く、水底へ。口を閉ざした貝のように沈んでいく。頭上では魚たちがああでもないこうでもないと、騒がしく踊っている。ぼくには関係のない耳障りな言葉が飛び交う。そうして魚は気まぐれにぼくの殻を突いては笑う。  触るな、と言いたかった。ぼくはお前らとは違う。釣り糸から垂らされた餌に、まんまと食いついて失敗する馬鹿な奴らとは違うんだ。そうして水底で、こいつらを笑ってやる日を待ち続ける。  学校というなら、休むことなく授業を続ければいいのに、と思う。  だが授業の後には必ず十分間の無用の休憩が挟まれており、特に四限目の後の昼休憩は長く、五十分間も取られている。  ぼくの国は五十分保つようにはできていない。いつも弁当をかきこんだ後は、教室を出て行くことにしている。  だが今日はそれすらもままならなかった。隣の女子はグループのボスで、とりまきはいつも彼女の机に集合して昼食を取る(ぼくはこれをひそかに猿山と呼んでいる)  さっきのことが災いしてだろう。意識が、視線が、言葉の端々が、暗にぼくへ向けられている。たとえばぼくは小学校一年生からずっと黒縁メガネをかけているが、「この前黒フレームのメガネがめっさ似合うイケメン見てさ――」たとえばぼくは身長が一五八センチだが、「なんだかんだ言って、チビってなくね?」たとえばぼくはずっと母親に髪を切ってもらっているが「あの前髪どうしたっつー話だよね、そー、あの前髪」たとえば……  静かに席を立つ。一瞬で、複数の瞳がこちらを下から上へ無遠慮に舐め回す。敵前逃亡。そんな言葉が頭をよぎる。ぼくは首を左右に振った。そうじゃない、いわばまとわりつく羽虫を避けるだけだ。付き合っていられない。  弁当包みを持って教室を出て行くぼくの背中を、痛がゆい失笑が掠めた。うっとうしい。廊下を曲がってから、教室の扉すら見えなくなってから、ぼくは汚い埃を取り除くように、片手でぱっと背中を払う仕草だけをしてみせた。  子供っぽい奴らだ。あんなところただのガキのたまり場だ。  教室を離れると、ふつふつと苛立ちが沸いてくる。溢れそうになるどす黒い感情を足の裏から逃がすように、一歩一歩踏みしめながら歩いていたぼくは、渡り廊下を行った先、旧校舎の一角で足を止める。  図書室。ぼくがこの学校で唯一安らぎを覚える場所だ。  引き戸に力を込めると、たてつけの悪い扉ががらがらと大儀そうに開く。  静寂がふんわりと体を包み込んだ。学校中に蔓延している騒々しさとは違い、その押しつけがましさのかけらもない感触に心が落ち着く。  窓が北を向いているせいで、真昼にも関わらず、図書室の中は仄暗い。整然と並べられた本の背表紙を彩るように、かろうじて差し込んでいる光を反射しながら細かな埃が舞っている。  新校舎へ次々と教室が移されていく中、ぽつんと取り残されたそこは時が止まったようだった。  入口近くにあるカウンターに、黙々と本を読む女生徒が一人だけいた。目にかかるほど長い前髪で隠れて表情は読み取れない。一目で『仲間』だと分かる。まるで鏡を見ているような気分になり、ぼくは安堵と落胆を同時に覚えたが、素通りしてしまえばやがて忘れた。  最初に内装を配置した奴は空間把握能力に問題があったんだろう。本棚と閲覧用の机が迷路のように置いてある。使いづらい、探しづらい。図書室が敬遠される理由の一つだ。逆に言えば中が入り組んでいて、一番奥の机を使えばプライベートが保たれる。ぼくにとっては一番のポイントだった。  ……あれ?  廊下側の隅に座席が置かれているのを見つけた。あんなところに閲覧場所があっただろうか?  何の気無しに近づく。窓から一番遠いせいで、昼間から働かざるを得ない白色灯が手元を冷たく照らしている。腰掛けて、ふうっと長めに息を吐く。それだけで肺を占拠していた重たい何かが、空気に溶けてなくなっていく気がした。  ぼくはふと手にあるものを思い出した。弁当だ。思い出した途端腹が減ってきた。  本来なら、教室で昼食を摂ってから図書室へ向かうのがぼくの日課だ。あんな女の猿みたいなやつらにペースを乱されたことに腹を立てつつも、むしろここで食べるのもアリじゃないかとふっと思いつく。  なんせ四方八方壁と本棚に囲まれていて、誰の目につくこともない。何かと騒がしい学校の中で、一人だけの贅沢な空間で食べる弁当はいつもより美味いだろう。逆になんで今のいままで思いつかなかったのか、この高校にほぼ丸一年通っているんだぞ。飢えてもないのに余裕なく飯を喉に流し込んでいたのがバカみたいじゃないか。  意気揚々と包みを開け、箸を手に取った。白飯、梅干し、卵焼き、唐揚げ、煮物――テンプレ通りの母親の弁当だ。好きなものを最後に残すタイプのぼくは、順番を決め、まずは煮物から…… 「――こら、少年」  心臓が喉から飛び出るとはこのことか。  それまで正常だった脈が、痛いぐらいに大きく打った。  煮物のにんじんを取り落としたぼくは、かっと目を見開いて正面を見る。  本来四人がけの机、その向こう側に一人の女生徒がいた。  いた。……そうとしか表現できなかった。ぼくのように椅子に腰掛けているわけでもなければ、ぼろっちいタイル張りの床に立っているわけでもない。  だというのに、足を組み、膝の上で頬杖をつき、泰然とぼくを見下ろしている。  言うなれば、  ――浮いている。  頭が真っ白になって何も考えられないぼくに向かって、彼女の方こそ意外だ、とばかりに目を瞬かせた。 「あれ、もしかして見えるのかいっ?」  肩に届く髪をさらりと傾け――実に嬉しそうに笑う。 「図書室は飲食禁止だよ。こんなに天気がいいんだから、せっかくなら中庭にでも行って食べたらどうかな」  死ぬほど驚いた時、本の中で見た人間は必ず喉が裂けんばかりの悲鳴を上げていた。死体を発見した時、大けがを負った時、宇宙人に遭遇した時、――幽霊を見た時。  しかし実際はというと、ひうっと引きつった息を吸うだけ、声を上げることすらできなかった。反射的に席を立つと、弁当箱が手に当たって、中身がひっくり返った。 「あっ、あ」  床に散らばった無残な白米やおかずを、ぼくは必死になってかき集めた。放っておけばいいものを、と思うかも知れないが、これがぼくのものだと知れたら図書室で飲食したことがばれてしまう、という思考が働いたからだ。  ――飲食禁止。  なんとか食べ物を弁当箱に押し込んだぼくは、はっとなって頭上を仰いだ。床に這いつくばるぼくを、幽霊がしげしげと見下ろしている。 「あっちゃあ……もう食べられないね。ううん、悪いことをした」  微塵も心にないことを言いながら、幽霊は面白そうに笑っている。  三日月型に細められた瞳には、深い黒の虹彩が宿っている。  油絵の具をチューブから直接塗りつけたような、深い深い黒色だ。  ――取り殺される、強くそう思った。  手やそでに米粒をつけたまま、ぼくは一目散にかけだした。迷路の壁のような本棚が今ばかりはうらめしく思える。  脱兎の如く図書室を出る。渡り廊下を戻り、新校舎へ着いたところで、立ち止まる。安心したわけではない、単に息が上がっただけだった。全身の血流が手に取るように分かる。汗をかくほど暑いはずなのに、手足だけが異様に冷たい。  おそるおそる、背後を振り返る。  周りにいるのは行き交う生徒たち。それもおそらく三年生だろう、一人だけ明らかに幼いぼくを誰も彼もが物珍しげに横目で見ていく。ぼくはとっさに顔を伏せて、のろのろと歩き出した。  図書室とは校舎どころか階層も違う。どこをどう来たのだろうか、まるで覚えていない。  ただ一つ、カウンターの女子がついぞ一度もこちらを振り返らなかったことだけは、頭の片隅に残っていた。  とにかく教室へ帰ろう。針のむしろのような三階、二階を経て、ぼくはようやく一年生にあてがわれた校舎の一階へと舞い戻ってきた。好きになれないとはいえども、慣れ親しんだ風景に安堵を感じてしまう日がくるなんて。上級生のいる階層や――幽霊のいる図書室に比べたら、大分マシだと思ってしまうなんて。  廊下の往来にうちのクラスの生徒が混じっていた。隣の奴らとはまた別の女子二人組が、汚いものでも見るように、こちらに首を向ける(実際、制服は汚いが)。  気が高ぶっているせいだろうか、それがまったく気にならない。超常現象に遭遇してしまった今となっては、日常のあらゆる場面がまるで昔話の紙芝居のごとくくだらない。  地につかない足取りで歩いていたぼくに、突如声がかかった。 「おおっ? 佐伯、どうした? それはなにがどうなった?」  はっと前を見ると、大仰にのけぞって驚愕のポーズを取っている女性がいた。  艶やかなロングを黒髪をなびかせている――くせに、化粧っ気のない顔とポロシャツにスラックスといった色気もへったくれもない格好。良い言い方をすれば、ナチュラルな美人。悪く言えば宝の持ち腐れ。  叶典子(かのう・のりこ)。担当教科は国語。御年二九歳・独身の――ぼくのクラスの担任である。  先生が言っているのは、米粒だらけのぼくの制服のことだろう。ぐっちゃぐちゃになった弁当を差し出しながら、ぼくはありのままを言った。 「……食べようと思ったら、ひっくり返しました」  叶先生は腹を抱えて豪快に笑った後、くいっと親指を立てた。 「しゃーないな。話もあるし、ちっと生徒指導室に面貸せや」  はぁ、と生返事をする。  面貸せや……か。結婚できないわけだな、と密かに納得した。  普通の生徒が生徒指導室に呼ばれたとなると一大事なんだろう。親が呼ばれて、隣に座って、担任がいて学年主任や教頭がいて、重苦しい雰囲気が漂っていて……  けどぼくの場合はあまりにも叶先生が気軽に呼ぶものだから、図書室に次ぐ常連になってしまった。あぁ……図書室はもう行けないか。一位陥落。けど、生徒指導室が一番よく行く場所、だなんてちょっと不良っぽい、と半分妄想する。  ここは職員室に隣接する小部屋だった。ぼくの部屋(たしか六畳くらいか?)と同じくらいの広さのところに、揃いの椅子と机が二組ずつ向かい合っているだけ。なので、空間が余りまくっている。図書室もそうだが、ここを設えたやつも大概センスがない。 「ま、座んなさいよ」  先ほどよりはまぁ女性っぽいかと言える口調で椅子を勧める叶先生。彼女は持っていた鞄から「じゃーん」と何かを取り出した。 「豚キムチトンコツバターとしょうゆジャガマヨごま油、どっちがいい?」  ゴッテゴテのパッケージが張り付いたカップ麺二つを前に、思わずうっぷとえづく。何それ、なんて? 味が多すぎて、聞くだけでお腹いっぱいだ。 「なんで二つ持ってるんですか……?」 「本来は、両方ともあたしの胃袋に収まってる予定だった。――トクベツ、だぞっ?」  ウインクがまったくうまくいっていない。  今にも鳴き出しそうな空腹を手で押さえる。これで午後を乗り切れるわけがない。気は進まないが、ぼくは「しょうゆジャガマヨごま油」を指差した。 「さすがは旦那、お目が高い」  満足げに頷く先生。ぼくはポケットをまさぐった。 「それ、いくらですか」 「ばかやろう」  発泡スチロール製の容器の角がぽこんと当たる。結構痛い。怒っているかと思いきや、上機嫌に鼻歌を響かせながら、先生は二つの容器に湯を注いだ。  立ち上った湯気から早くもかぐわしい匂い。気乗りしなかったさっきまでの自分をあっさり裏切り、ぼくはごくんと生唾を飲んだ。叶先生も、だ。……あんたは男子高校生と一緒か。  目の前に置かれた、蒸気で少しよれた蓋に、揃えておかれた重し代わりの割り箸。タイマーがきっちり三分を告げたところで、先生は手を合わせた。 「いただきます」  ぼくも一応、それに小さくならう。しょうゆジャガマヨごま油ラーメンは思ったよりもしつこくなく、喉ごし良くするすると胃に入っていった。 「どーだ、うまいか?」  脳天気な笑顔には、まったく裏表がない。月に一度ほどのペースでここに呼ばれるからだろうか。少々不本意ではあるが――ぼくは学校で唯一、この先生相手だと肩の力を多少抜くことができた。 「……美味しい、です。ありがとうございます」 「だろだろ。こっちもおすすめですぜ、旦那。ちっとばかし交換……」 「えっ、いや、いいです」 「えっ、いや、あたしもそっち食べたいんだけど」 「えっ、いやです」 「いやですか……」  美味しいのだがいかんせん大容量のため(これをいっぺんに二個食べようとするなんてぼくには考えもつかない)半分を越えたところで箸の歩みが衰える。それとは対照的にいまだせっせと麺を口に運びながら、その合間に叶先生が尋ねた。 「なぁ、まだ友達できないのか」  いや、尋ねるというよりはほぼ断定していた。そりゃそうだ、だって担任なんだから。ぼくは完全に手を止めた。 「……別にいりませんし」 「なんで? ずっと喋らないと気が滅入らない?」 「別に」  繰り返す。もう慣れてしまった。 「あんな馬鹿みたいにくだらない話ばっかり……。無駄だと思いますけど」 「えーでもなぁ、楽しいけどなぁ」 「それは先生の価値観でしょ、ぼくは違いますから」 「おお、カチカン。難しい言葉知ってんなぁ」 「……バカにすんなよ」  幾分苛立ちを含めて言い返す――そうしてから、ぎくっとして後悔する。教師相手にさすがにまずいか、という思考。自分の小心さに気づかされ、嫌気が差す。  が、しかし叶先生は気にした風もなく両手を挙げた。 「してないしてない、とんでもない」 「他人の心配より自分の心配したらどうですか。もうすぐ三十歳でしょ、先生」  反撃されなかったことへの安堵で、自然、口数が多くなる。  叶先生はバツが悪そうにふっと視線を逸らした。 「……いいんだよ、あたしは。そういうのは、さ」  格好つけているだけで、明らかに現実から逃避している。 「この前、若い男の先生結婚したみたいだし。このままだと完全に行き遅れ……」 「う、うっせえなぁ!」  唐突に叫ぶと、叶先生はやけ食いを始めた。ずるずるずると今までの倍の速度で、ラーメンが消えていく。 「ちきしょう、本多め、後輩なのに先に結婚しやがって! 何が『先輩も式に呼んであげますからね』だ。ふざけんなーっ!」 「ちょっと先生、スープが飛ぶ」 「ふん、どうせ私は毎日屋上で黄昏れてるのがお似合いなんだよ……。私を分かってくれる男がいないのよ……とかって――あ、そーだ。佐伯くん。君、お兄ちゃんいない?」 「もしかして相手探してるんですか? いえ、ぼく、一人っ子なので……」 「いとこは? はとこは? こうなったら叔父さんとか叔母さんとか!」 「叔母さんは駄目だろ!」  言ってから、あまりの叶先生の必死さに、小さく吹き出してしまった。先生もつられるように笑ってから、ふうっと息をつく。 「そーやって、あたしとなら馬鹿話してくれんのになぁ?」  表情が強張る。先生は他に何を言うでもなく、にこにこと笑った。  ぼくは悔しさか羞恥かそれとも他の何かか……肩に力を入れた。 「結局、説教かよ」 「ははは、違うって。ただ佐伯に楽しい青春過ごして欲しいってことだよ」  大人はすぐにそう言う。もう二度とこない時を楽しめ、だとか、今しかない青春を謳歌しなさい、だとか。この息苦しい学校生活がそんなに貴重なものだろうか? ぼくにはいまいちピンとこない。 「人との繋がりとか? 案外、悪いもんじゃないって、騙されてみなさいな」  繋がり。ぼくはその甘っちょろい響きを、腹の内でせせら笑った。青春、友達、繋がり。どれもこれも脆く崩れそうなのを取り繕った菓子細工のように、現実味がない。ぼくは少なくともこの学校では誰とも繋がっていない。  ――繋がりたくもない。 「ごちそうさまでした。……お金、やっぱり払います」 「だからいーっつーの。独身だから。溜め込んでるから。そーさなぁ、あと一回ぐらいはおごってやるよ」  今度はしかし軽口には付き合わず、ぼくはわざと丁寧に一礼して部屋を出て行った。決して振り返ることなかったが、やはり叶先生はにこにことぼくの背中を見送っているんだろうと思った。  お化けなんていないさ、そんなの絶対嘘なのさ。小さい頃に聞いた、強烈な自己暗示の歌がここんところずっと頭の中を流れている。そんな日々を送っているうちに、やっぱりあれは常識的に考えて見間違いだったよな、と自分の中で結論づけた。  というのも、ぼくの国の柔らかくて頼りない防護壁は崩壊寸前だった。隣の女子たちの気まぐれなターゲットにされてしまったのか、ことあるごとに視線を感じたり、暗に話題に上ったりすることが増えた。  彼女たちばかりではない。図書室という安息の地を失ったぼくは、昼休みも教室に居ざるを得なくなった。「最近、あいつどっかいかないね」「まさか今更話しかけてほしいとか?」「かまってちゃんケッテーイ」……聞こえていないと思っているんだろうか、新しい話題に事欠くクラスメートの暇つぶしに利用されると、はらわたが煮えくりかえる思いだった。  運の悪いことにぼくの現在の席は教室の中央やや前方。さらし者もいいところだ。最近は、教室の端で春めいた風にはためくカーテンの中、すやすやと眠る運動部の男子が恨めしくて仕方なかった。お前、別に寝るんならどこだっていいだろ、代わってくれよと言いたくなる。  そんな状況なので、結論ありきという感は否めなかったが、ぼくの足は再び図書室へと向かっていた。  やや大股で歩き、口をぎゅっと引き締める。手には弁当。リベンジマッチという気概だった。飲食禁止? 知ったことか、ぼくはあそこで悠々と昼飯を食ってやる。  相も変わらず本の虫である受付の女子を素通りし、ずんずんと奥へ進む。ひんやりとした湿気と埃っぽい匂いをはらんだ空気が、ぼくの頬を撫でた。高くそびえ立つ本棚に、光を遮られた場所にぽつねんと置いてある机と椅子。先ほどまでの勢いを失い、ぼくはぎくっと足を止める。今までなんとも思わず通っていたのに、途端に感じる『いかにも』な雰囲気に気圧されたのだ。  だがぼくには帰る場所がない。教室に帰ったところでまた『あれ』だ。背水の陣。ぼくは意を決して椅子に腰掛けた。  そして弁当箱を開けてばくばくと食ってやる――ということはすぐにはせず、とりあえずきょろきょろと辺りを見回した後、手近な本棚からすいっと一冊抜き取り、読むふりをした。飲食厳禁だとのたまっていたので、規則を破ったことを咎めるために幽霊が出てきたんじゃないかと考えたからだ。  適当に取った本は無駄に分厚くて、古そうだけど綺麗だった。『ロシア文学全集Ⅳ』……なるほど、誰も読まなさそうだ。中身も聞いたことのないタイトルばっかりで、文字の上を目が滑っていくだけ。  辛い。退屈すぎる。様子見をあとどれぐらい続けようか―― 「ん、トルストイかい? 君のような少年にしては難しい読み物だなぁ」  今度は飛び上がったりはしなかった。  ただまるで瞬間冷凍されてしまったように、その場から動けなくなってしまう。  まさか、いや、何故……でもこの聞き覚えのある声はやっぱり――  振り返りたくない。振り返ったらまたぼくの常識が覆されてしまう。  ぼくの世界が……  ばさっ、と何か黒いものが視界を覆った。つややかでまばらな黒い髪の暖簾と――逆さまになった少女の顔。哀しげに引きつった表情に、ぼくは今度こそ悲鳴をあげた。 「う、ひゃあああ……!」  出た。声が出た。喉の途中に空いた穴から漏れ出たような、一番情けない類の。  大きく身を引いたことで、椅子がバランスを崩した。そのまま後ろに倒れ、ぼく自身も木製の背もたれで尻を強打する。 「っうう……」  波のように押し寄せる痛覚に、目を瞑り歯を食いしばる。  涙に滲んだ視界に、華やいだ笑顔が飛び込んできた。 「やっぱり見えていたんだね。いじわるしないでおくれよ」  間違いない。この前の、少女の幽霊だ。  彼女はくるくるとその場で回った。かなり上機嫌であるらしい。  その楽しげな様子と、明るい声音、何よりも同じ学校の制服と同じ年頃の少女――お目にかかるのも二度目だ、息も出来ないほどの恐怖はなかった。 「幽霊だって無視されたら哀しいよ」  ……怖いものは怖いが。  こうして姿が見え、声が聞ける以上、彼女は現実のものと認めざるを得ない。  縮こまっていても仕方ない。ぼくは思い切って彼女に話しかけた。 「あ、あの……」 「ん、なんだい?」  喋れる。会話ができる。そのことが純粋に不思議で少し感動した。 「本当に、幽霊……?」 「うーん、その質問に答えるのは難しいなぁ」  思案げに、腕を組む。 「なんせ、あの世に行ったけど追い返されたという記憶もなければ、霊能力者に『あなたは立派な幽霊です』と太鼓判を押されたわけでもない。気がついたらこうなっていたんだよ。よく見たら妙に透けているし、ぷかぷか浮けるし」  よくもまぁべらべらと喋る幽霊である。半ば呆れていると、困ったように眉を寄せた。 「それになにより、誰も、ぼくに気づいてくれないしね」  ……ん? ぼく? 「お、男……?」 「君、それはちょっと失礼じゃないかい? 女性らしさが欠如していることは自覚してるけど、ぼくは立派な女子さ」  唇を尖らせ、スカートを摘んで見せる。ぼくは慌てて否定した。 「ちっ、違くて……」 「じゃあ、女の子らしいかい?」  結論から言うと十分そう思う。天使の輪ができるほど(本当に天使なのかもしれないが)艶めいた黒髪は、肩口で綺麗に切りそろえられ、ゆるやかな内向きに収まっている。何より黒目がちの瞳が、自称幽霊とは思えないほどきらきらと輝いていた。  ぼくが知っている同年代の女子では、見たことがないほど美人だ。 「はぁ、まぁ……」  ぼくの呆気にとられたようなはっきりしない返事にも、幽霊はことさら嬉しそうに微笑んだ。 「あはは、嘘でも嬉しいよ。ありがとう」  言葉を交わすうちに恐怖感は薄れていった。ちょっと変だけど(一人称がぼくって。厨二病かよ)悪い人……幽霊じゃなさそうだ。 「君、名前はなんて言うんだい? あ、ぼくから名乗らないと悪いね」  幽霊はふわっと高く浮き上がると、向かいの席に腰掛けた。 「ぼくは本倉波留(もとくら・はる)。あ、季節の春じゃないんだ。打ち寄せる『波』に留守番電話の『留』で波留さ」  留守、だけでいい気がするけど。 「ハル、って呼んでおくれよ」  波留――季節の春ではなく、波留。ハル。  なんだか目の前の彼女にしっくりきている、と思った。 「君は?」 「……佐伯紫遠(さえき・しおん)」 「シオン! いい名前だなぁ」  ハルは即座に手を打った。うんうん、と首を振る。そうだろうか……。賛同はしかねる。ぼくはこの女とも男ともつかない自分の名前が好かない。けどあまりにもハルが褒めるので言いそびれた。 「ねえ、シオン。友達になってくれないかい?」 「えっ?」  ぼくは驚いて顔を上げた。黒い宝石のような瞳に、紛れもなく自分が映っている。 「なんせ、ぼくを見ることができたのは君だけだからね。こうやって誰かと言葉を交わすのも久しぶりだよ――というか、ぼくの記憶の中では初めてさ!」  ぼくは思わずからからに乾いてうまく動かない自分の口元に手をやった。学校では言わずもがな、家に帰っても家族とは最低限の会話だけ。  ――それはぼくも同じ、かもしれない。  なんだか、逃げることも断ることもできなくなる。 「そんなこと……を、言われても」 「嫌、かな」  そう肩を落とされると、自分がとてつもない冷徹人間に見えた。  友達。その響きはやはりくだらない。けれど「なってくれ」とはっきり言われたことなどないので、どうしていいか分からず、 「嫌、というか……」 「ならいいのかい?」 「はぁ……」  結局、圧された。 「本当かい?」  ハルは小躍りせんばかりに喜んだ。ぼくはほっと吐息をつく。 「君は幽霊思いのイイ奴だね」  高校に入って最初の友達が……幽霊。笑うに笑えない。 「椅子に座りなよ、床は冷たいだろう? ……まぁ、ぼくには分からないけど」  まるで自分の家のように振る舞うハル。逆らう理由も見つからず、ぼくはのろのろと腰を上げ、痛む尻を椅子に落ち着けた。 「にしても、こんなところで昼食を摂るなんてシオンも奇特だなぁ。もしかしてシオンも『ぼっち』なのかい?」 「は、ハァ?」  あまりにもな言いぐさに、眉をしかめる。だがハルはその言葉をよく理解せずに言っているようだった。 「あそこの実織(みおり)も『ぼっち』らしい。いつも図書室で弁当を食べてるね」  実織――ハルがそう呼ぶのは、十中八九受付の女生徒だろう。ぼくはずれたメガネのツルを押し上げ、小さく嘆息した。 「ぼくが思うに『ぼっち』は一人ぼっちの『ぼっち』かなぁ?」 「他に、何があるんだよ……」 「やっぱりね。ということは、ぼくも『ぼっち』というわけだ。つまりシオンとぼくと実織は『ぼっち仲間』だね」  何を嬉々として話しているのかはいまいち分からないが、『ぼっち仲間』という言葉の持つ矛盾に思わず吹き出しそうになる。緩む口元、ついでに腹筋も緩んだのか、ぐぅっと腹の虫が鳴った。 「お弁当、食べないのかい?」 「えっ?」  ぼくは思わず顔を上げた。 「だって……飲食禁止じゃ」 「まぁ、そうだけどね」 「見張ってるんだろ……?」  尋ねると、ハルはあっけらかんと答えた。 「別に見張っちゃいないさ。図書室の番人というわけじゃないしね」  てっきり、図書室の規則を破るヤツに取り憑いて殺すのが仕事だと思っていた。 「……シオン、君、何か失礼なことを考えてないかな?」 「……いただきます」  お言葉に甘えて昼食を摂る間も、ハルはせわしなく話しかけてきた。落ち着いて食べられやしなかったが、ハルの声音は聞いていて不快なものではないな、とだけ思った。  そこから、ぼくと幽霊少女・ハルの奇妙な関係が始まった。  ハルが無害な幽霊である以上、図書室へ行くことに何の弊害もない。よって教室にいる理由はない。  昼休みになるとぼくは必ず図書室へ向かった。  ハルは待っていましたとばかりに「やぁ、シオン」と声をかけてくるのだった。  それが一週間ほど続いた、ある日のことだった。 「本質的なことを尋ねるけど、ぼくはやっぱり幽霊ってやつだよねえ。どう思う、シオン?」 「そうなんじゃ、ないか……?」  というか、どこからどう見てもそうだろ。海を自在に泳ぐマンタにように、横向き浮遊や縦方向のターンを繰り返すハルに、半分感心、半分呆れる。 「いつからそうなんだ?」 「ううん、はっきりしないんだよね、それが。気がついたらこうだったんだよ。ぼくはね、図書室から出られないのさ」 「図書室の……地縛霊?」 「その肩書きはなんとなく嫌だなぁ……」 「昔、図書室で死んじゃった、とか……。っていうか、死因は?」 「……さあ?」  ――なんだって? 首を傾げるハルに、思わず目を剥く。 「覚えてないのか?」 「というか、生前の自分のことも断片的にしか覚えてないんだよねえ。こんな格好をしているから、ここの生徒だとは思うんだけど」  確かに、ハルはこの高校の制服を着ていた。今の仕様となんら変わりはない。少なくとも大昔ではなさそうだ。 「なんでここに存在するかなぁ……。まぁ、確かに読書は好きだった。それは覚えてる。特にミステリー小説が好きでね。あぁ、そうだ。ぼくは将来探偵になる気満々だったんだよ」 「ハァ、探偵?」  嘲笑が声に混じった。ますます厨二病だ。黒歴史決定だ。  と、ハルの眦が吊り上がる。――ぼくは笑みを引っ込め、僅かに瞠目した。まただ、やってしまった。  しかしハルは頬を膨らませ、ぷんすかという様子で、 「人の夢を笑うことないだろ。言っとくけど、ぼくは今でも諦めてないよ」 「あ、諦めてないって」  今度は安堵の息が声に出る。はは、と乾いた笑いも。 「また笑ったな、このぉ――」  手を振り上げたハルが、ふと動きを止める。黒曜石のような瞳の先を追いかけると、怪訝な視線とぶつかった。  思わず肩をびくっと揺らす。  そこには半分書棚に身を隠すように立っている、見知らぬ女生徒がいた。受付のぼっちでもない、もちろん幽霊でもない。とりたてて特徴のない、どこにでもいそうな生徒だ。  いつからいたのだろう、まったく気づかなかった。  というか――ぼくは、内心で冷や汗をかいた。もしや、見られていた? としたら、他人の目にハルと会話するぼくはどういう風に映るのか。想像に難くない。  事実、女生徒の目には怯えと動揺と混乱が見て取れた。いつも教室で受けているそれを何十倍にも濃くしたやつだ。むしろこれほどはっきりしていると逆に清々しいほどだったが。いやいや、とにもかくにもこれはまずい。  重苦しい沈黙の中、ぼくはか細い声を上げる。 「こ、れは……その」  沈黙が破られたことによって、女生徒もまた時の流れを取り戻す。はっと目を見開くと、逆に燃えるような決意の眼差しでこちらを射貫いた。 「それ……読んでるの?」  敵意すら感じる固い声音。震える人差し指が示しているのは、ぼくが机に置きっぱなしにしていた「ロシア文学全集Ⅳ」だった。  こ、これを……? 意外な目的に反応が遅れる。女生徒はじれったそうに歯噛みするなり、大股でこちらに歩み寄ってきた。 「貸してよっ」  有無を言わさぬ早さで分厚い本を奪う。  ――そして、不可解なことが起こった。  彼女は迷いなく最終ページを開くなり、かっと顔を赤くした。そのまま乱暴に本を閉じると、まるで癇癪でも起こしたかのように、あろうことかそれを床に叩きつけたのだ。  ばんっ、と痛々しい音を立てて本が僅かにバウンドする。  ――あまりのことに声も出ない。口をあんぐり開けて見守るしかないぼくを、女生徒はきっと睨み付けた。  ぼくは見た。見てしまった。  吊り上がったその目尻には朱が差し、うっすら涙が浮かんでいた。  彼女はそのまま踵を返し、嵐のように走り去った。  静寂が戻る図書室に、ぼくはぽつねんと取り残された。  いや、ぼく一人ではない。何故か自然とハルを見る。ハルもぼくを見ていた。  思わず目を合わせる――すなわち、感情の共有。その久しい感覚は、ぼくの心に平静を取り戻す。 「……なん、だったんだよ」  わけもわからず呟く。昼飯の味がどこかにすっ飛んでいってしまった。 「――シオン、その本を拾ってくれないかい」  顎に手を当てて思案のポーズを取りながら、ハルが言う。まぁ、確かにこのままではあんまりだろう。女生徒が舞い戻ってぼくに返してくれるとは到底思えない。仕方なく、哀れなハードカバー本を拾い上げる。 「ん……?」  指先に何か粘着質な感触がした。思わず顔をしかめる。まさかこの前落とした米粒が残っていたんじゃあるまいな。指同士をこすってそれを落とす。  更に気になってぱんぱんと表紙を手で払っていると、ハルが肩越しから覗き込んできた。 「彼女は最後のページを見ていたねえ。悪いけど、開いてみてくれるかい?」 「あぁ……」  きっと幽霊らしく、ハルは物に触れることができないのだろう。気にならないと言われれば嘘になるので、その頼みに応える。  肝心の記載内容はというと、これはいついつに出版されたとか誰が編集責任者だとかいう、本の情報だった。一番最初に「奥付」と銘打ってあったからこれはそういう名前の箇所なんだろう。なんにせよ、とりたてて珍しいものはない。するとハルの指がぼくの見ているページとは反対側を指し示した。 「きっと、何かあるとしたらこっちだろうね」  最終ページの隣、それは裏表紙……の裏とでも言えばいいのだろうか。普通の本ならただ固い感触が返ってくるばかりだが、そこには図書室の本ならではのものがある。 「貸出カード……?」  すっと引き抜いて見てみるが、思った通りそこには誰の名前も書いていない。期待を裏切らず、人気の欠片もない本らしい。が、ハルは鋭く言った。 「その後ろ、何かある」  封筒の下半分を利用したカードを入れる袋が貼り付けられている、そこにはカードの他に別の紙が挟まっていた。 「あ……」  それを取り出す。簡単に、二つ折りになったメモ用紙。  広げて見ると簡素な四文字が飛び込んできた。 『さ よ な ら』  不可解かつ不気味な言葉に――ぼくは思わず声を上げて、メモを放り出した。  だって、ぼくの背後にいるのは紛れもなく幽霊で、忘れかけていた恐怖が足下から沸きだしたように思い出されたのだ。  ――しかし、 「ふーむ……ふむふむ?」  当の幽霊は熱心にメモを覗き込んでいた。意味もなく逆さまになって。  怒濤の如く頭をよぎったホラーな展開が完全に裏切られ、ぼくはやや頬を染めながら、メモを拾い直した。 「なんだよ、これ。……いたずらか?」 「どうかなぁ、そうかなぁ」  あからさまに声が弾んでいる。今にも踊り出しそうに(というか、空中をくるくると回っているのでこれはすでに踊っている)ハルは言う。どこか小馬鹿にされている気分だ。ぼくはむっとしてハルと向き合った。 「じゃあなんだっていうんだよ」 「いたずらならもっと色々方法があるだろう。彼女はきっと、この本を使って誰かとやりとりしていたんじゃないかな?」 「やりとり? 手紙ってことか……」 「そう、それもこんな本……と言っては失礼だけど、まぁ、誰も借りなさそうな本を使って。秘密のやりとりさ」  ぼくは眉根を寄せた。秘密の文通。さよなら。別れの言葉。  それはつまり―― 「ラブレター……?」  自分でも言いながら、腑に落ちない。これをラブレターと言っていいかはともかくとして。 「……くだらない」  一気に興が冷めた。ぼくはぽいっとメモを放る。ハルがもったいないと言いたげにそれを追った。 「ええー、なんでなんでえ?」 「なんでもへったくれもない、つまりこうだろ。……さっきのヤツはこの人気のない本を使って、この学校のどっかにいる男とラブレターを交換してた。けど今し方振られた。だから怒って本を投げつけた。ただそれだけじゃないか」  強いて言うなら、この携帯だパソコンだというご時世にアナログなことだ。奥ゆかしいというか野暮ったいというか。 「ううん、そうかなぁ」 「……他に何があるっていうんだよ」  何か言いたげなハルに、ぼくは水を向けた。こういう議論は嫌いじゃない。自分の意見に自信があるからこそ、だ。  しかしハルの反論は意外と鋭いものだった。 「だって彼女、メモの中身を見なかったよねえ? ページを開いたと思った途端、怒っちゃったんだよ?」 「それは……透けて見えたんだろ」 「メモは貸出カードの後ろにあったから、中に何が書いてあるかは見えなかったと思うよ。折りたたまれていたしね。ほら、シオンも実際広げてただろう?」  言葉に詰まる。ぼくはぎゅっと口を尖らせた。 「それは……そうだけど。じゃあどうしてあんなキレてたんだよ」 「彼女が見たのはきっとそのメモさ」 「だから、そんなことバカでも分かる」 「ああ、ごめん言い方が悪かったね。つまり彼女はメモ自体を見て怒ったんだよ。貸出カード越しでもメモがそこに残されていることは分かるからね」  メモ自体……? ぼくは必死に頭を巡らせ、そして気づいた。 「そうか、これは……さっきの女子が出した方の手紙かっ」 「おそらくはね」  頷き、ハルはさらに朗々と語った。 「手紙のやりとりには何らかのルール……例えばいついつまでに受け取るとか、そういう取り決めがあるんだろう。けど、その期限を越えても手紙が受け取られていなかった。無視されたんだ。だから……彼女はあんなに怒っていたんだね」  最後は哀しげに目を伏せるハル。  無視された、なかったことにされた手紙。ぼくは何とも言えない気持ちで放ったメモを再び手に取った。 「でも……やっぱりフラれたってことだろ。変わらないじゃないか」 「うん、それはその通りだと思うよ。……なんだか可哀想だね」  安易に同情するハルを、このときばかりはなぜだか嘲笑することができなかった。  受け取られたなかった手紙を指先で弄ぶぼくに、ハルが尋ねる。 「シオンはそれをどうするつもりだい?」 「……は?」  思いがけない質問に目が点になる。 「どうするって……?」 「捨てるのかい? それとも彼女に届けるのかい?」 「……はあ?」  なんでぼくが。ありありと表情に浮かんでいたのだろう、ハルは残念そうに言った。 「やっぱり捨てるのか……」 「捨てるっていうか。そのまんまにしとけばいいだろ」  そう、何も見なかったことにして、何も聞かなかったことにして、この貸出カードの後ろに戻す。それでいい。  いい……はずだ。  するとハルはますます表情を歪める。 「そうだね……。けど、ぼくにはそれが一番悲しい気がするんだ。なくなることも、戻ることも、伝えることもできない、宙ぶらりんな――そんな、気がして」  ハルと、手の中の手紙を交互に見つめる。幽霊と、幽霊曰くぼっちのヤツと、宙ぶらりんの手紙と。  ――ここには、そんなものばかりが澱のように沈んでいる。  ぼくは思わず目を伏せた。  仕方、ないじゃないか。そうなりたくてなったわけじゃない。けど、そうなってしまったんだから。言い訳をしながらも、ぼくは一つだけ自分にできることを知っていた。  貝のように閉ざした口を、重苦しく、開く。 「返すったって――どこの誰かも分からないだろ」  するとハルがぱっと顔を上げた。 「ぼくが突き止めてみせるよ」 「……もしかして、探偵気取りか?」  面倒くさいことこの上ない。肩を脱力させて言ったが、ハルは弾むように何度も頷いた。 「探偵……いいね、それ。そうだ、幽霊探偵なんてどうだい? 地縛霊よりよっぽどいいだろう?」  自分でわけのわからない肩書きを作って、悦に入っているハル。返す返すもおかしな幽霊だなぁ……。 「とはいっても……。あの女子のことなんて知らないからな」 「うーん、そうだね。ぼくも何度か見かけたことがあるような、っていう程度かな。とりあえずもう一度本をよく見せてもらえるかい?」  ハルに見えやすいよう、いろんな角度に本を動かす。ページもくまなくめくる。大体一周して表紙に戻ると、ハルが首を傾げた。 「あれ、ここに何かついてるよ」  ぼくは、げっ、と唸った。さっきぼくの指についた、推定・この前落とした米粒である。まるで糊のように少しだけ張り付いていた。 「多分、ゴミっていうか……あれだよ。ぼくの弁当……」 「あぁ、あのひっくり返したやつかい? その節はごめんよ。でも……うーん、その割りにはなんだか……」  うんうん悩んでいたハルは、ぼくにとんでもないことを言ってくる。 「ちょっと匂いを嗅いでみてくれないかい?」 「……はぁ!? や、やだよ」 「まぁまぁ、ちょっとだけだから。ね? さすがに舐めてとは言ってないじゃないか」  さらっと恐ろしいことをのたまう幽霊である。ぼくは意を決して鼻先を近づけた。僅かな刺激臭。うう……確実に腐ってる。 「どうだい?」 「なんか……ツンと来る」 「なるほど」  何に納得がいったのか、大きく頷くハル。  まさかとは思うが、彼女の正体が分かったとでも言うのか。 「どこに行けば彼女に会えるか分かったよ」 「――えっ!?」  そのまさかに、ぼくは素っ頓狂な声を上げた。 「な、なんで。どうして?」 「ええっとそれはおいおい説明するとして。うーん、そうだなぁ……」  勝手に考えこむハルに苛々していると、彼女はぱっとこちらを振り向いた。 「シオン、君、放課後は空いてるかい?」  窓から斜陽が赤々と差し込んでいる。どこからかカラスの脳天気な声が響いてきた。それを今のぼくは少しうらやましいと思っていた。  担任の叶先生がホームルームを締めくくると、教室は浮ついた開放感に包まれた。早速時間の有り余っている暇な奴らがお喋りに興じたり、部活に向かう奴らが準備をし出したり。  ぼくはというと、いつもなら即座に教室を出て帰路につくのだが、今日は違った。緊張の面持ちで教室前方の扉に向かうと、職員室に帰ろうとしていた叶先生に声をかけた。 「あのっ……先生」 「ん? おお、佐伯。どした?」  ぼくから話しかけられるのが珍しいからだろう。叶先生は大きな瞳をぱちぱちと閉じたり開いたりした。 「教えて欲しいことがあるんですけど……」  ハルに言われた通りのことを聞くと、叶先生はますます瞬きを繰り返す。 「第二運動場の校舎側でやってるけど……。え、まさか佐伯、入りたいのか?」 「い、いえ。そういうわけじゃ」 「なんでだよっ。うちのソフトボール部には全然興味なかったくせに。しかもあそこ本多が顧問じゃないか……ええい、くそ」 「そ、それじゃあ」  もはや逆恨みといった感じで悔しがる叶先生を置いて、ぼくは第二運動場へ向かった。  うちの学校には、体育の授業などでも使われる広い第一運動場と、校舎裏の空いたスペースを利用した狭い第二運動場がある。言わずもがな、県大会などに出場する有力な部活は第一運動場を使用するので、別名『二軍運動場』などと揶揄されるらしい(ソフトボール部は第二の方で、以前、叶先生が愚痴っていたのを聞いた)  いつもは真っ先に向かう昇降口に背を向けて、特定の部員しか使わない第二運動場へと続く半ば錆び付いた扉を開く。そのこと自体がぼくにとっては完全に非日常で、大きな不安と僅かな興奮が胸を占拠していた。  ――まぁ、幽霊と話したとか友達になったとか、あまつさえその探偵ごっこに付き合わされている、なんてことに比べたら大したことない。  そう自分に言い聞かせる。  扉を開いてすぐ、埃と砂が入り交じったような匂いが漂った。馴染みの薄い感覚に、ひくひくと鼻が動く。  目の前にはプレハブの部室棟に続く、渡り廊下があった。靴裏の砂を落とすためのマットが、歩く度にざりざりと音を立てる。真ん中辺りまで来て右方を見やると、背の低い植え込みの向こうにすぐ見渡せるほどの運動場があった。  夕日に照らされた生徒たちがちらほらと見て取れた。二列縦隊を作って運動場を周回する部員、顧問の指示に従って柔軟体操をする集団――  悪いことは一切していないのだが、なんとなく壁伝いに移動する。ぼくは叶先生に教わった通り、校舎側に一番近い部活動を探した。  サッカーのそれよりも、二回り小さいゴールのネットに、次々とボールが投げ入れられる。手前で踏み切り、両足を上げて滞空時間を重視するようなフォーム。――ハンドボール。そのスポーツの存在自体は知っていたが、間近で見るのは初めてだった。  どうやら今はシュート練習の時間らしい。順々にゴールへボールを放つ部員たちの中に――果たして、彼女はいた。真剣な表情でボールを持つ手を確認し、猛然と走り出す。  跳躍、そしてシュート――その瞬間、ネット越しにばちっと目が合った。  まるでぼくたちの間に電流が流れたようだった。ぼくが肩をびくっと竦めると同時に、彼女は目を見開いて、ボールをあらぬ方向へ投げてしまった。  次の部員のために、そしてボールを追いかけるため、慌ててゴール前から退く。ホイッスルを首から提げたジャージ姿の若い男性教師(おそらく新婚の本多先生だろう)が、彼女に話しかける。二言三言交わした後、なんと彼女はこちらに向かってやってくるではないか。  肩を怒らせて、大股で歩み寄ってくる。途中、ボールを掴む手に血管が浮いているのが見て取れて、ぼくは今すぐ逃げ出したい気持ちになった。 「……あんた、昼休みの。一体、何の用?」  図書室でもそうだったが、やや吊り目気味の顔は負けん気で溢れかえっている。いかにも気の強そうな女だ――ぼくが一番敬遠するタイプの。 「てか、なんであたしのこと分かったの? 初対面でしょ?」  不快そうに眉を顰める女生徒。ぼくはちらっとジャージの右胸を見やる。須藤。そう刺繍されている。 「……松ヤニが」 「は?」 「本に、松ヤニが……ついてた」  須藤ははっとなってボールを掴んでいた手を見やる。そこには砂混じりの松ヤニが、五本の指についていた。  全てはハルの言う通りだった。  ハンドボールは片手でボールを掴まなければならない。特に手の小さな女子は、滑り止めの松ヤニが必須だ。おそらく昼練を終えた足で図書室に来た須藤の指に残っていた松ヤニがあの本を強く握った時に、僅かについたのだ――と、そう。  悔しげに手を握りしめた須藤は、ますます敵愾心をむき出しにしてきた。 「――で、何なのよ?」  その敵意にあてられて、ぼくも段々むかついてきた。ポケットに入れていたメモ用紙を、これ見よがしに差し出す。 「これ……置いてったから」  ……掠れんばかりの声しかでないことにも、腹が立つ。  須藤は驚いた様子でメモ用紙を見つめた。 「――それ、見つけたの?」 「じゃあ、やっぱり……」  これは彼女のものだったのだ。須藤はしまったといった風に顔をしかめ、そっぽを向いた。 「アンタには関係ない。いいからあそこに戻しておいてよ」 「でも……受け取って、もらえないんだろ」  思わずぽつりと呟いた一言が、須藤の逆鱗に触れた――いや、的確に射貫いてしまったらしい。一瞬のうちに、彼女の顔が赤く染まった。 「なんなのよ、アンタッ! ウザいのよ!」  突然の攻撃に、ぼくは雷を打たれたかのように動けなくなる。 「なんでもかんでも見透かしたようにッ――何様のつもり!?」  癇癪を起こす須藤の様子を見て、逆に恐怖と混乱が次第に収まってくる。図書室の時と同じだ。須藤は感情の起伏が極端に激しい性格のようだ。  自分でもそれが分かっているのだろう。彼女は胸に両手をあてがって、浅い呼吸を繰り返した。 「好きに……好きにすればいいでしょ、そんなもの。破って捨てなさいよ」  勝手な物言いと先ほどの反撃とばかりに、ぼくも多少声を荒げる。 「じ、自分でしたらいいだろ。なんで、ぼくが」 「寝覚めが悪いって? ハッ、いい子ちゃんのつもり? ……とにかくあたしは受け取らない。そんなもの見たくない」  駄々をこねるように首を左右に振った後、須藤はいかにも思いつきで続けた。 「――どうしてもっていうなら、アンタが届ければ?」  一瞬、何を言われているか理解できなかった。ぼくは思いっきり顔をしかめた。 「は、はぁ?」 「それの届け先。送り主が受けとらないんだから、届けるしかないんじゃない?」  な、何を言い出すんだ、こいつ……? 完全に理解の範囲外、宇宙人でも見るような目つきで須藤を睨む。 「じゃあ、誰、なんだよ……」 「――言うわけないっつーの」  もはやわけがわからない。癇癪を起こす権利があるのは間違いなくぼくの方だ。  叫び出しそうになるのをぐっと堪えて(いや、そもそも前提としてあまり人前で大きな声が出せない、そんな喉の詰まり方だった)メモ用紙を握る力を込める。 「人のことを探るのがお得意なんでしょ? 探せるもんなら探してみれば?」  なんでもかんでも言い当てたことが(それは断じてぼくではない。悪いのはあの幽霊探偵なのだ)激しく感に障ったようだ。 「あたし、もう戻るから」  ふいっとこちらに背を向け、部活に戻ろうとする須藤。ぼくは慌てて言った。 「ちょっと、待っ……」 「――『英国の伝統的料理文化』」  ぼそっ、と去り際に須藤が言い置いた。  それだけを残して、彼女はボールを手に走り去った。残されたぼくの目の前を、風に巻き上げられた砂がもうもうと土煙を上げていた。  何もかも忘れて家に帰りたい気持ちを抑えて、ぼくの足は再び図書室へと向かっていた。時刻は午後五時前。六時には完全下校だ、急がねば。  図書室は黄昏時の薄暗さと相俟って、不気味だった。放課後の勉強に励む生徒の輪を尻目に、ぼくは奥の席へと向かう。  幽霊探偵は相も変わらずふわふわと浮いていた。書棚に詰め込まれた本の背表紙を端っこから順番に点検しているようだった。 「……ハル」  いささか疲れた声で呼びかけると、ぱっと黒髪が翻った。 「やあ、シオン。首尾はどうだった?」 「言われた通り、だったけど……。でも」  渡せなかったメモ用紙を見せ、事の顛末を話すと、ハルはさもありなんといった様子で頷いた。 「まぁ、受け取らないだろうねえ」 「分かってて行かせたのか!?」 「そんなに怒らないでよ。一応、確認はしておかなくっちゃあ」 「……それはそうだけど」 「でも、シオンのおかげで彼女の気持ちはハッキリしたよ」 「そうなのか?」 「というか、この場合、ハッキリしてないことがハッキリしたというか」  もう回りくどい言葉はたくさんだった。椅子に座ってぐったりすると、ハルがぱたぱたと手で顔を仰いでくれる。 「普段使わない頭をたくさん使って疲れたんだね。お疲れ様」 「おい、今、なんて?」 「おっとこりゃ失言。えへへ」  ぺろっと舌を出し、いたずらっぽく笑うハル。 「――話を戻すけど、彼女も相当悩んでいるようだよ。秘密にしていたけど、見つかって欲しいような。その逆であるような……きっと、気持ちの整理がつかないんだね」 「だからってぼくを巻き込むなよ……」  力なく呟くぼくとは対照的に、ハルは意気揚々と力こぶを作って見せた。 「探せるもんなら探してみれば、か。挑戦状を受け取ったからには逃げるわけにはいかないね、幽霊探偵の腕の見せ所さっ」  反射的に反対意見を述べようとして――しかし、できなかった。 「……まぁ、全てはシオン次第なんだけどね。ぼく一人じゃ何も出来ない」  肩をひょいっと竦めるハルはしかし、泣き笑いのような表情を浮かべていた。  どうしてだろう、とずっと考えているのだが――どうやらぼくはこのハルの表情に弱いらしい。  それに……  ぼんやりと壁時計を見やった。こんな時間まで学校に残っているなんて、高校生になって以来初めてのことじゃないだろうか。  味気ない日常に突然舞い込んできたもの。ぼくはそれを――悪くは思っていない。  ぼくは観念して、須藤の最後の言葉をハルに伝えた。 「――英国の伝統料理……がなんとか。そう、須藤って女子は最後に言ってた」 「っ! 分かった、ちょっと待ってて」  フリスビーを投げられた飼い犬のごとく、ハルは一目散にある書棚へ向かった。そして何かを確認して再び舞い戻ってくる。 「見つけたよ、シオン。あそこにある本だ。取ってくれるかい?」  窓際の書棚の一番上に、その本はあった。『英国の伝統的料理文化』。確かに須藤の言葉と一致する。  手を伸ばすがまったく届かない。ハルが気遣わしげに言った。 「大丈夫……シオンは、まだこれからさっ」 「うるさいな」  一旦諦め、用意されているはずの足場を探し、持ってくる。上部の本を取るための台座は予想以上に重く、浮いたり飛んだりできるやつが心底羨ましいと思った。  『英国の伝統的料理文化』なる本はこれまた分厚いハードカバーで、なおかつ高校生がまったく興味を示さない種類の書籍であることに間違いなさそうだった。  ぼくらのテリトリーたる最奥のテーブルに持ち帰る。開くのはもちろん裏表紙の裏、貸出カードの部分だ。 「……あった」  思った通り、裏にカードとは別の紙が入っていた。しかも今度はメモ用紙ではなく、小さな封筒に入ったちゃんとした『手紙』だ。 「気が引けるけど、仕方ないなぁ。拝読しよう」  手紙は四つ折りならぬ、八つ折りにされた、B5の便せんだった。  こんにちは、彩。  まだ寒い季節が続くけど、学校で見る限りは元気そうだね。  部活最後の日、泣かせてしまって申し訳なかった。  でも、あれが嘘偽りない本心です。  あの日、部室で伝えたことを、改めて言います。  お別れしましょう。  月並みな言葉ですが、それがお互いのためだと思います。  今回、二人が遠く離れてしまうことはきっかけにしかすぎず、  実は心の中でずっと考えていたことなのです。  いや、君とこうして想いを交わすようになったあの時からかもしれません。  本当に申し訳のないことです。  私は君の人生からいなくなります。  けれど、いたことに変わりありません。  そして、変わらず、遠くの地から君を応援しています。  今は悲しいかもしれません。怒りを覚えるかもしれません。  きっと、そうなのでしょう。  けれど、後々になって私の思いが君に理解されますように。  おこがましいながらも、そう願っています。  彩。お別れです。  さよなら。  ……なんだろう。  とても冷静な、大人びた文章だと思った。  彩――おそらく、須藤の下の名前だろう。相手を気遣い、諭し、突き放すというよりはそっと気づかれないように手を離すような、そんな別れの言葉だ。 「綺麗で、温かい手紙だね」  口元に淡い笑みをたたえながらハルが言う。 「きっとあの子のことを心から想ってるんだ」 「……とりあえず、情報を整理するぞ」  あえてつっけんどんにぼくは返した。 「この手紙の相手のことだ。最初――『部活最後の日』と言ってるからには、同じ部活のやつってことだよな」 「うーん、でも最後の日ってなんだろう? あの子……アヤは今日も部活にいたんだよね?」 「それはもちろん、相手が最後ってことだろ。ということは――言わずもがな、卒業生。現三年生だ」  ぼくは校庭に植えられた並木を思い浮かべた。薄い色のつぼみをつけはじめた桜――それは出会いと別れを想像させる。  ……もちろん、ぼくには出会いも別れもないが。  いや――ちらっと横目で考え込む幽霊探偵を見やる。少し気の早い、しかも妙な出会いはあったか。 「じゃあ、二人が遠く離れるというのは……やっぱり大学進学かな?」 「だろうな」 「けど、三年生の部活はとっくに終わってるよねえ?」 「……最後にちょっとだけ顔を出したとかそういうことだろ」  言葉に詰まりそうになるのをなんとかこらえ、反論をひねり出す。大体の三年生は夏休み手前で部活を引退、受験に備える。中学の時もそうだったから、多分一緒だろう。だがぼくが言った風なことがなきしもあらずだ。最後の最後、懐かしさも手伝ってかよく挨拶に来る先輩はいた……らしい。中学も帰宅部だったので、聞いた話だ。 「うーん、まぁ、普通に考えればそうだよねえ。っていうことは――」 「男子ハンドボール部の、三年生の、最近挨拶に来た奴」  ほぼ特定されたようなものだ。気は進まないが、ハンドボール部の人間に聞けば分かることだろう。  ――チェックメイト。  とんだ無茶振りだと思ったが、須藤彩自らが出したヒントで全てが分かってしまった。  要はただ単に、自分では受け取ってもらえないから、誰かを介して『さよなら』という返事を言いたかっただけなのか。ぼくは深々とため息をついた。巻き込まれる方の身にもなってみろ。  なんにせよ、ぼくは自力で目的の人物に辿り着いてみせた。  少しだけ得意げにハルを見やると、幽霊はじいっと本の睨んでいた。 「まだ何かあるのか?」 「……ううん、いや。なんでもないよ。それでどうするんだい、シオン?」 「えっ?」 「今からまたハンドボール部に行って聞き込みをするのかい? 君が……その手紙を渡す?」  黒曜石の瞳がじっとぼくの顔を映し込んでいる。  ぼくは想像した。  須藤綾は本当にそれを望んでいるのだろうか。  だったらわざわざ最後に、たった四文字の短い手紙を書くだろうか?  ハルに言われるまで人の心情など、まるで考えもしなかったぼくは、この難しい作業をなんとか終え、疲れたように言った。 「……もう一度、須藤のところに行けばいいんだろ」  気分は持久走のゴールが自分が思っていたよりも、一〇キロも先だと気づかされた時のようだった。  ハルは嬉しそうに頷いた。 「相手が分かった、と言えば彼女も心変わりするかもしれないよ」 「くそ、これじゃ使いっ走りじゃないか」 「……ごめんね」  ハルが目を伏せると、白い頬に長い睫の影が落ちた。ぼくはとっさに口の中で「別にいいけど」と呟いたが、小さすぎてハルには聞こえなかったようだった。  春が近づいて来たとは言え、日はまだ短い。  いつ来るか分からない相手を待ち続けるのにくだびれて、ぼくは空を仰いだ。下校三〇分前の校門から眺めた光景は、僅かに赤みを帯びた日が、夜を引き連れて遠く稜線の向こうへ沈みゆく姿だった。  一人、また一人と生徒が下校していく。皆、服の隙間から汗と砂の匂いがする。そんな中、取り澄ました姿のぼくは、ここでは「浮いている」と言わざるを得ないかもしれない。  詮無いことを考えていると、不意に探し求めていた生徒がやってきた。  文句の一つでも行ってやろうかと踏み出したぼくだったが、たたらを踏む。須藤は同じ部活仲間の女子三人と話をしながら歩いていた。 「なんか今日せわしなかったよね」 「そーいや本ちゃん、引っ越しもうすぐじゃなかった?」 「あぁ、なるほど~。準備に追われてるわけ。だから今日もそそくさ帰ったんだ」 「結婚して、新居に引っ越し。愛の巣かぁ。……地獄に落ちろぉ!」 「ひどっ。でも朱美はお祝いパーチーを企画しているツンデレなのでした」 「ち、違うもん。本ちゃんのためじゃないんだからねっ。勘違いしないでよね」 「アハハ、ウケんだけど、マジ! ……って、おーい、あやや? 聞いてる?」  友人に肩を叩かれた須藤は、はっと顔をあげた。 「ごめ……何だっけ?」 「いや、大したことは……。てか、大丈夫っすか。具合悪いの?」 「ハハ、ぼーっとしてた。ちょっと疲れ気味、かも」 「なんか最近、体調悪そうだよね。明日、部活休んだら? 本ちゃんに言っとこうか?」 「いーよいーよ。そんなんじゃないし」  愛想笑いを張り付かせたまま、須藤はふいに正面を向いた。……すなわち、ぼくと目が合った。運動場でのことを思い出し、いささか尻の座りが悪い。 「……ね、あれって部活の時に来た人?」  警戒心を露わに、須藤の友人が尋ねる。どうやら顔を覚えられてしまったらしい。 「ごめん、ちょっと用事。また明日ね」  友人たちに別れを告げると、須藤は唐突にぼくの手首を引っ掴んだ。驚く間もなく、ずんずんと角を曲がった先の道に連れて行かれる。 「痛いって!」  しばらくしても放す気配がないので抗議の声を上げると、ばっと須藤が振り向いた。 「あんた、マジで何なの? 何年の誰?」  ……そうか、そこからか。薄闇の中、睨み付ける須藤にぼくは脱力して答えた。 「一年の、佐伯」 「……聞いたことない」  そりゃそうだ。一学年で十クラスもあるんだ。ぼくだって今日まで、須藤彩なんて名前の生徒、見たことも聞いたこともなかった。  ……それに、ぼくはハル曰くぼっちだし。  色々あったせいだろうか、今までにない開き直りでぼくは思った。  唇を尖らせつつも、須藤はようやく手を放した。生っちょろい手首にくっきりと赤い手形がついていた。思わず引き寄せ、慰めるようにさする。 「ふん……同学か。ま、そうだろうと思ったけど」  同感だ。実はぼくだってそう思っていた。こんな子供っぽい奴が上級生なわけがない。 「ねえ、つけ回すのはやめてよ。いい加減にして」  この不毛なやりとりも何度目だろう。ぼくは頭の片隅にハルの顔を思い浮かべて、なんとか苛立ちの渦をやりすごした。……別にあいつのためじゃない。結局、逃げ帰ったって言いくるめられるんだと、観念しただけだ。  ぼくは無言で例の手紙を差し出した。須藤が出した手紙、そしてその直前に相手が出したであろう手紙の二枚だ。 「だから好きにすればいいじゃん、って」 「……自分で処分しろよ」 「いや。捨てないんだったら、あたしの手紙ちゃんと渡して」  にべもなく断る須藤に、ぼくはかっとなってまくしたてた。 「――相手は同じハンド部の三年生だろ。引退してるけど、最近部活に顔を出した奴だ」  その時の須藤の表情は忘れられない。すっと目を眇めて、かすかに口元を歪めた。瞳には失望が、口端には嘲笑が、それぞれ薄く浮かんでいた。  頭に血が上る。羞恥が血液に乗って体中を駆け巡ったようだった。 「い、いいのか、ぼくがハンド部でかぎまわっても。いろいろ噂になったりするだろ、そういうの、あんたも嫌なんじゃないのか」 「好きにすれば」  同じセリフを言い放って、須藤は大股で歩き出した。置いて行かれそうになったぼくはどうしていいか分からず――とっさに自分の家路も同じ方向だと気がついて、のろのろと足を踏み出した。親鳥の後ろに列を成す雛のように、須藤に追い縋っているようで、じわっとした屈辱感が滲んだ。 「ついてこないでって」  返す言葉もなく、無視した。何を言ったって、会話のループになることは目に見えていた。  二人とも無言のまま、駅前にさしかかる。この二宮北口駅は大きくないながらも、三路線が交差するちょっとした乗り換え駅だ。駅直結の商業施設や高級マンションが建ち並んでいる。ぼくの家の最寄り駅はここから五駅先だ。  駅前まで来てしまったが、どうしよう。須藤はどこへ帰るのだろう。そう思っていた時、はたと須藤の足が止まった。  思わず彼女の視線を追いかけると、広く取られた歩道の脇にあるタワーマンションの駐車場前に、一人の女性が立っていた。目がチカチカするような赤い派手なワンピースに、目が回りそうな巻き髪のロング。一見してその派手さに目を奪われる。  須藤はその女性を睨んでいた。女性の体に眼力で穴を開けようとしているのか、というぐらいに。肩は強ばり、拳は白くなるまで握りしめられている。  地下へと続く駐車場の入口を覗いていた女性は、ふっとこちらを振り返った。須藤を見留めた途端、僅かな戸惑いの後、満面の笑顔を浮かべる。 「彩、帰ってたの?」  とっさに顔を背ける須藤に、それでも小走りで駆け寄ってくる女性。彼女の目元はなんとなく須藤に似通っていて、すぐに母子なのだと分かった。 「夕ご飯、冷蔵庫に入ってるからね。チンして食べて――あら、お友達?」  高校生の娘がいるとは思えないほど、若々しい、鈴を転がすような声。ちらっと目配せされたぼくはなんと答えていいか分からず、小さく会釈した。愛想もそっけもない態度だったが、女性はにっこり微笑んでくれた。 「はじめまして、彩の母です。男の子のお友達、初めて見たわ」  てっきり否定するかと思いきや、須藤は口を開かない。最初から存在しないと言わんばかりに、母親を黙殺していた。  母子にできた間隙を取り繕うように、須藤の母親はぼくに尋ねてきた。 「一緒に帰ってきたの? お家はここらへんなの?」 「いえ……その。家は、南塚の方です」 「そうなのね、もうちょっとかかるのね」  答えられることだけ、なんとか話す。母親が相づちを打つ度に、身につけている大振りのピアスや金色のネックレス、黒いエナメルのショルダーバッグが街灯の白い光をきらきらと反射した。 「もしかして、同じ部活の――あっ」  なおも話を続けようとした母親の言葉を遮るように、駐車場から赤い車が飛び出すように出てきた。――いや、実際そんなに速度は出ていなかったが、ぶぉん、という腹の底に響くエンジン音がそう感じさせたのかも知れない。  やたらと車体の低い、外国産の高級車のようだった。ドアの開く方向が斜め上、という一般人には見慣れない仕様だ。そこから出てきたのは、意外と真面目そうな(悪く言うと車負けしている)スーツ姿の三十代ぐらいの男性だった。 「ちなつちゃん!」  呼ばれた母親はことさら大きく手を振り返してから、どこか遠慮がちに娘に言った。 「じゃあ、お母さんお店行ってくるね」  須藤はやはり何も返さない。母親は困ったように笑いながら、ぼくにも「またね、さようなら」と告げて男の車に乗り込んでいった。  うぉん、と地を這うような排気音を残して車が走り去る。  ……どうしよう、どうしたことだろう。  何も聞かずとも、微妙な母子関係は察した。その場から一歩も動けず、じっと須藤の背中を見ていると、彼女の食いしばった歯の間から呻くような声が漏れた。 「あたしは……あんな、風にはならない。男に縋って生きていくような、みじめな人生はイヤだ」  自分自身に言い聞かせているように。 「あたしは違う。自立した――立派な女(ひと)に、なるんだ」  耳に残る言葉だった。呆気にとられているぼくを尻目に、須藤はタワーマンションの入口に向かって行く。 「――あんたがそれをあの人に届けてくれるんなら」  途中、踵を返し、須藤は言って寄越した。 「受け取ってくれたなら……どんなことになろうと、あたしは後悔しないから」  そこか悲壮感に満ちた言葉とともに、須藤はエントランスの向こうへ姿を消した。  信号が青に変わったのだろう。歩道に面した大通りを、たくさんの車が通行していく。駅へと足早に向かう人の往来も。  そのただ中で、ぼくはしばらくその場に立ち尽くしていた。 「どうか届けて欲しい……つまり、そういうことだね」  翌日の昼休み。図書室で昼食を摂りながら昨日のことについて話すと、ハルは神妙な面持ちで呟いた。 「本に挟んでも受け取ってもらえないんなら、直接渡せばいいだろ」 「秘密の関係だったようだからね。学校ではあまり面と向かって喋られないんじゃないかな?」 「じゃあ無理矢理鞄の中に突っ込んでおくとか」 「シオンにはロマンとデリカシーが足らないなぁ」  やれやれと首を振るハル。ぼくはむっとして言い返した。 「そんなもの分からなくて結構だね。あぁ……何してるんだろうな、ぼくは」  我に返れば負けだと分かっていながら、そう述懐せずにはいられない。 「まぁまぁ、きっともう少しさ。頑張ろうよ」 「もう少しも何も、あとはしらみつぶしに探すだけだろ……」  とはいっても、その作業自体がくせ者なのだった。初対面の人間に、未対面の人間のことを聞いて回るのだ。正直、気が重い。  すると、ハルがやおら切り出した。 「そのことなんだけどね、シオン。少し……待った方がいいと思うんだ」 「は?」 「彼女の想い人は、シオンが思っているような人物じゃないかもしれない。なんだか……腑に落ちないんだよ」  今更と言えば今更な発言に、ぼくは鳩が豆鉄砲を食ったようになった。 「な……何言ってんだよ。見ただろ、あの手紙。同じ部活の三年生としか推測できないじゃないか」 「うーん、にしては――厳重すぎる気がするんだよ」  ハルは蕩々と語り出す。 「今のご時世、メールとか色々手段はあるよね。こんな回りくどいやり方しなくても、秘密の関係は続けられるよ」 「そっ……れは、そうだけど」  んなこと、最初からそう思ってた。 「それこそロマン……って奴なんじゃないのか」 「多少、入ってるのは否めないけどね。……けど、手紙とメールでは違う点が一カ所ある」  ハルがピッと人差し指を立てた。 「決定的な証拠が残らないのさ」 「……残ってるじゃないか、バッチリ」  忌々しい紙切れを幽霊の目の前に提示してやる。しかし返ってきたのは否定だった。 「重要なのは誰が誰に送ったか、だよ。例えば携帯を見られれば、すぐ分かってしまうだろう?」 「パスワードつけるだろ、普通」 「そこがミソだと思うんだ」  ハルはぎゅっと眉根を寄せた。 「みんなに知れたら恥ずかしいから、とかそういうことじゃなく――二人の関係は、他の誰かに決して知られてはならないほどの秘密だったんじゃないかな。事と次第によっては、パスワードを教えろ、何もやましいことがないなら全て見せろ――そう、迫られる危険性があるぐらいに」  横から頭をぶん殴られたかのような衝撃だった。  所詮、浮ついた奴らの恋愛ごっこだろうと思っていた。  けど、昨日の鬼気迫る須藤の表情が、図らずもハルの推理に説得力を与えている。 「聞き及ぶところによると、ああいうデータはたとえ消去しても復元できるっていうじゃないか。怖い世の中だねえ。くわばらくわばら」  幽霊の口からそのまじないを聞くと、複雑なものがある。半ば諦めかけていたものの、ぼくは未練がましく言い返した。 「……筆跡鑑定とかすれば、分かるじゃないか」 「そこまでやる前に、言い訳が押し通る可能性は高いと思うよ。『少女趣味の妄想なんです』とか『友達と遊びでしました』とか。それ以前に、相手が分からない。ぼくたちも未だにこうして相手を探しているからね」  それに須藤の『本』に関する助言がなければ、手詰まりだったかもしれない。いや、勘の鋭いハルをもってしてもそうだろう。 「手紙は最悪、燃やしてしまえばいい。……だから、厳重なのさ」 「そうまでしなきゃならない相手って――なんなんだ?」  観念して尋ねると、ハルはしばし考え込んだ後、おもむろに顔を上げた。 「実はね、シオン。一つ気になっていることがあるんだ。相手からの手紙が入っていた……『英国の伝統的料理文化』をもう一度取ってくれないかい?」 「あれをか……?」  ぼくは重い腰を上げて、書棚の前に赴き、台座を使ってその分厚い本を手に取った。 「手紙が挟まっていたところを開いて欲しいんだ」 「って言っても……もう何もないだろ?」  手紙はぼくがこうして不本意ながら所持している。予想通り、そこには貸出カードしかなかった。  ――が。 「ん……なんだこれ?」  ぼくは封筒の間からひょっこり顔を出しているカードを見た。『ロシア文学集Ⅳ』のように誰も借りてないと思いきや、一番上の行に文字が書かれていた。 「――“資料貸与”?」  そう、そんな事務的な印象を受ける四文字が、ぽんと判されていた。  通常、図書室から本を借りれば、ここに名前が残る。何月何日、何年何組、氏名――そして最後に返却されれば、その日付が一番右に書き加えられる。  だが、その行には日付、そして『資料貸与』の文字、そしてまた返却日付。それだけしか書いていなかった。  しかもその日付は…… 「二月二十日……ごく最近だな」 「そうなんだ」  ハルは我が意を得たりとばかりに頷いた。 「多分、この『資料貸与』をした人物が彼女の相手である可能性が高いんだよ」 「でも、名前がないぞ。……いや、それ以前にこんなところに証拠を残すか?」 「これもメッセージの一部と考えたらどうかな」 「……メッセージ?」 「意味はまだ分からないけど、貸与、とあるからにはその人物はこの本を借りたんだ。本来なら借りる必要はないにも関わらず」  それはそうだ。家で書き上げて、こっそり入れ込めばいいんだから。 「けど、その人物は本を家に持ち帰った。……きっと」  触れられないと分かっていながら、ハルはそっと人差し指で文字をなぞった。 「これは、決意の表れだと思う。『別れる』という決断が揺らがないという――そして、この『資料貸与』は精一杯の『署名』だったんじゃないかな」 「署名……」  名前が書き残せない手紙の、せめてもの署名。  その意を汲んでいながらもなお、彷徨っている須藤―― 「それでも、君は、暴くかい?」  ハルが静かに言った。もう答えは分かっているというように。  ぼくは顔を上げた。 「そうしなきゃ、終わらないんだろ」  貸出カードを手に、ぼくは図書室の受付へと向かった。あの女子に『資料貸与』の意味を聞かなければならない。  受付の女子は相変わらず俯いて、じっと活字を目で追っていた。ぼくの防壁よりも強固な、近寄りがたい雰囲気。しかし、気圧されている場合ではない。 「ちょっと……聞きたいことがあるんだけど」  女子は何の反応も示さなかった。無視かよ、苛立って大きな声を張り上げようとすると、後ろからとんとんと肩を叩かれた。 「うわっ」  驚いて振り返ると、眉を顰めた叶先生と目が合った。腕に十冊以上の本を抱えている。 「なーにが、うわっ、だ。シツレイじゃないか、おい」 「なんだ……叶先生か」 「なんだとはなんだ」  ムッとした表情を浮かべた叶先生だったが、さっと笑顔を浮かべ、受付の右側――ぼくとは反対の方に回り込んだ。そして、 「杏野、何度もごめんな。これで全部だ。綺麗さっぱり返却っ、と」  すると、杏野と呼ばれた女子はさっと顔を上げた。叶先生を認めると、一つこくんと頷く。  カウンターに置かれた大量の本の、カードを一つずつ抜いては、何かを書き込んだり、判を押したりしている。返却の事務処理だということは容易に分かった。  ぼくも特に気にはとめなかっただろう――そこに書かれているのが『資料貸与』という文字でなければ。 「せ……先生!」 「うわっ、なんだ――佐伯か」 「さっきからいたでしょうが。そ、それより……これ、なんですか?」 「これ?」 「この……資料貸与ってやつです」  叶先生はぼくの人差し指の先を辿り、杏野が押している判を見て、あぁ、と頷いた。 「これは教師の特権ってやつだな」 「……え?」 「あー、あんま言っちゃ駄目だぞ。ほら、先生って、ただ授業だけしてるわけじゃなくて、プリント作ったり、そのために本を調べたり、さ。色々苦労してるわけよ、分かってないだろ、そんなこと」 「そ、それで」 「え……あぁ、それで。それで、つまり図書室の本は原則、一人六冊まで二週間しか借りられないけど、教員への『資料貸与』ならその限りじゃないってことだ。もちろん、先生はちゃぁんと返してますよ?」  ない胸を張る叶先生に、しかしぼくは無反応で考え込んだ。なんだよノリ悪いな、と先生はぶつくさ言っている。  判明した『資料貸与』の意味を考えるなら――須藤の相手の可能性は一つしかない。ハルの言っていた推理とも合致する。厳重すぎるやりとりの方法に、パスワードを教えろと迫られかねない関係性。  そしてぼくの脳裏に閃くものがあった。  一人の、人物が…… 「おーい。おい、佐伯?」 「はっ――はい」  思考の淵に沈んでいたぼくは、叶先生の声によって現実に引っ張り上げられた。 「もう戻るんだったら、一緒に行くぞ、ほら」  ハルにこのことを伝えようかと一瞬思ったが、ぼくは叶先生に従った。もう『彼』の正体は分かった。あとは……どう伝えるかだ。  図書室を出て階段を下りながら、叶先生は言った。 「さっき、杏野に怒鳴ろうとしたろ。駄目だぞ、そういうの」  そういえば、と思い出す。しかしあれは杏野が悪い。 「無視されたら誰だって腹立つでしょう。しかも先生と分かった途端、応対するとか」  あんなやつでも内申点は惜しいのか、そんな邪推をしていたがしかし、 「……杏野はな、右耳が聞こえづらいんだよ」  ぼくは驚いて先生を見た。先生は悲しそうな優しそうな不思議な顔をしていた。ぼくを責めることはしない、誰も悪くはない、そう言いたげな。 「つまりみんなそれぞれ思いがけない事情があるかもしれないよ、ってことだ」 「そんなの……分からないだろ、普通……」 「少なくともそういう可能性があるんだって思い当たる人に、佐伯にはなって欲しいな、とそういうこと」  にっ、と白い歯を見せる笑顔でそう締めくくると、叶先生は階段を下っていった。ぼくはその背中を見送りながら、その通りだ、と妙に納得していた。  もちろん、彼女の相手のことを思ってのことだった。  どうやって彼と接触すればいいだろう。考え抜いた末に、ぼくは待ち伏せ戦法をとることにした。夕方のホームルームが終わるのを見計らって、事前に調べておいたクラスへ向かう。隣の隣――それは奇しくも、須藤と同じクラスだった。  まだこちらはホームルームが終わっていないらしく、ぼくは慌てて柱の陰に隠れた。ほどなくして号令がかかり、椅子ががたがたと動く音、そして一番最初に前方の扉から出てきた人影を見留める。  その上背の高さ、そしてまともに話したこともない人間と相対することに、二の足を踏むが、ここまで来たなら迷っている余裕はない。 「――ほ、本多、先生!」  ぼくのぎりぎりの大音量だった。足を止めた男性――本多先生は見慣れない生徒に声をかけられ一瞬驚いた――様子をなんとか笑顔の裏に押しとどめた。 「あぁ……ええと、叶先輩んとこのクラスの子だよな?」 「はい……佐伯、です。あの、少しだけいいですか」  お忙しいところすみません、などと気を使えずとも、せめて愛想笑いでもすれば円滑に行くだろうか。  だが叶先生を先輩と敬っているだけあるのか、本多先生もまたにこにこと人好きのする笑みを崩さなかった。 「おう、いいぞ、何でも言ってくれよ。あ、でも勉強は苦手だからそういう質問はパスな」  表情の固い僕を和ませようとしてくれたのだろう。冗談を言う彼に、ぼくは口端を引きつらせながら(これでも合わせて笑おうとしたのだ)言った。 「できたら、人目に付かないところで、お願いできますか……」 「うーん、じゃあ理科準備室でどうだ?」  理科の先生だったのか、という驚きを禁じ得ないままでいると(快活な様子がなんともイメージにそぐわなかった)本多先生は、あ、とまた思いついたように言うと、おもむろに左手薬指をかざしてみせた。 「告ったりしちゃ駄目だぞ、なんせ先生、先月だから。新婚だから。なははは」  どう考えればそういう発想になるんだろう……こういうのオヤジギャグっていうのか、ちょっと違うのか……? 呆れかえるのと同時に、ぎくりと肩が強張る。  その何気ない冗談と、今からぼくが彼に突きつける内容が微妙に重なっていたからだ。  本多先生に連れられて、三階にある理科準備室へと足を踏み入れる。想像通り、資料の模型やら実験の器具やらで足の踏み場のない床に、天井まで届きそうな本棚の中にはびっしりと分厚い書籍が並べられている。ぼくの自室ほどだろうか、ただでさえ狭い室内は埃っぽくて息苦しい。  人体模型の影に隠れて見えなかった椅子に座った本多先生は、ぼくに倒れていた丸椅子をすすめてくれた(もちろん、起こしてからだ) 「……それで、なんか相談事か?」  先ほどとは打って変わって真面目な顔で、本多先生は尋ねて来る。態度のめりはりが、やはり叶先生を彷彿とさせる。  五分の四ほどがロッカーに隠れてしまっている窓から、妙に長細い光が差し込んでいる。黙り込むぼくを照らす陽光は、固く閉ざされた唇をじわじわと溶かそうとしているようだった。早く切り出しておしまいよ、ここまできたらそれしかないだろう――と。  視線と沈黙によって話を促す本多先生に根負けして、僕は先に言い置いた。 「ここで話すことは誰にも、言いません」 「うん……?」 「単刀直入に言います。この手紙は――あなたが書いたものですよね?」  ぼくは二番目に見つけた長文の手紙を、本多先生に差し出した。濃いめの眉毛がひそめられる。彼は訝しげに受け取ると、その中身に目を通した。 「その宛名人は返事として、これを出してます。どうしても届けたいと……そう言われて、来ました」  そしてこの事態の発端ともなった、たった四文字の手紙を差し出す。  本多先生はじっと両者を見比べていた。深い慎重さを思わせる光を瞳に宿して。  資料貸与は教員にしか許されていない。なら自動的に須藤の文通相手は教師ということになる。  同じ部活の教師――すなわち、顧問。  そして二人の関係は、彼の結婚をきっかけに終焉を迎えた。  遠くに行ってしまうのは、彼がおそらく引っ越しをすることだろう。もしくは心理的や立場的に距離ができたという意味かも知れないが。  許されざる恋……これが、その正体なのだ。 「ぼくは……何も、あなたたちの関係を暴き立てたいんじゃないんです。須――いえ、その相手、から、手紙を渡して欲しいとお願いされたというか、強請られたというか、半ば仕方なく……。とにかく、この最後の手紙を、受け取ってもらえませんか。そうすれば彼女も納得しますから」  本多先生は静かに僕の話を聞いていた。そしてまた手紙に目を落として押し黙る。  手の平にじっとりと浮かぶ汗を隠すように、ぼくはぎゅっと両手を握り込んだ。彼の反応が恐ろしかった。怒り出すかも知れない、あるいは秘密を知ったぼくに危害を加えようとするかも――なんて、そんなドラマの見過ぎと言われても仕方ないような展開まで、脳裏をよぎったその時。 「……その、なんと言ったらいいか」  心底困った様子で後頭部を搔きながら、本多先生はそう切り出した。  ぼくは慌てて言い募る。 「本当に、他言はしません、から。ただ須藤さんは、あ、いえ……その、彼女は最後の一言でちゃんとけじめをつけたいとか、そういうことかと……」 「いや、そうじゃなくて、つまり」  手の平をこちらに向けて、待ったをかけた本多先生は、意を決したように言った。 「――これは、僕じゃない」  ひゅっと喉が鳴った。  言葉とともに吐き出していた空気を取り戻すための、反射的な呼吸だった。  色をなくしたぼくに、本多先生はゆっくりと諭すように言った。 「僕はこの手紙を書いていないし、誰かと手紙を交わしていたこともない。君は……何か勘違いしていると思う」  ……だが、よくよく考えれば普通のことだ、といささか落ち着きを取り戻す。  秘め事がばれたのだから、どうにか言い逃れしようとするのは道理に適っている。ぼくがいくら「秘密にします」と口約束したところで、信じてもらえなければそれまでだろう。  しかしこれでは一連の騒動が終わらない。なんとしても認めてもらわなくては。 「……最初に渡した手紙を貸してもらえますか?」  文章の一つ一つを説明するより他ない。ぼくは根拠となる箇所を指差していく。 「部活のことについて書かれているところがいくつかあります。ここから、同じ部活……ハンドボール部の人間であると思われます。部室に入れる人間だってそう多くはないですよね」 「その……そこなんだが」  思わぬところで口を挟まれ、ぼくは話を遮られる。 「彩……というのは、その、彼女のことだと思うけど、女子、だよな」 「そ、そうです。当たり前です」  本多先生は何か確信を得たとばかりに、大きく頷いた。 「――第二運動場の部室の説明をしよう。まぁ、知ってるかもしれないが、メインの運動場を使っている部活と比べてあんまり優遇されてなくてだな、部室も男女別棟というだけで一部屋を二、三個のクラブが合同で使っている」  何故急にそんな話をしだすのか。わけのわかっていない僕に、先生はシンプルに説明する。 「部室はそのまま更衣室になっている。僕は男子と女子のハンドボール部の顧問をしているが、入れるのは男子の部室だけということだ」 「そっ……」  かあっと頬が紅潮していく。  自信満々に彼が須藤の相手だと決めつけた時の自分が、まざまざと頭に甦った。いや、違う……そんなはずはない、彼に違いない。  これは言い訳しているにすぎないんだ。 「だからといって、ぶ、物理的に不可能じゃないでしょう。女子の部室に入るのは」 「まぁ、そうだけどな……。なんつったらいいのかなぁ、そう、女子トイレに男子が足を踏み入れるような感じだ。物理的に不可能じゃない、けど、主観的にも客観的にも抵抗あるだろ?」 「でも、ミーティングだってするはずだし」 「ミーティングは基本、屋外だ」 「だ、誰もいなければ。その時を見計らって……」 「ハンド部だけならともかく、他の部の部員もいるかもしれんからなぁ」  本多先生は真っ直ぐぼくを見つめ、もう一度言った。 「ともかく――これは、俺じゃないんだ。それだけは本当だ」  羞恥が最高潮に達した瞬間、ぼくはふと違和感を覚えた。  本多先生の眼差しはあまりにも揺るぎない。自分ではないと訴えているだけではない。  まるで、誰なのか、知ってるようだ――  稲妻にも似た閃きが、頭の中を駆け巡った。  脈拍が落ち着いていく。唐突にハルの声が響いた。 「本多先生、一つ教えてください」  あの、核心を鋭く突く、迷いのない声音が。 「――女子ハンドボール部と部室を共にしているのは、どこの部なんですか?」  濃い眉がつい、と跳ね上がる。気づいてしまったか、そう言うように。  ぼくの問いかけに答えるべく、本多先生は静かに口を開いた。  夕暮れを眺めてため息をつく。だから黄昏れる、なんて言うんだろう。  危機管理が叫ばれる昨今、屋上への扉が普通に開くことに驚きつつも、ぼくは彼女を見つけた。  空がキャンバスならば、赤と橙のインクをバケツで混ぜて、直接ぶちまけたような鮮やかな夕焼けだった。透き通る春の大気の向こうに、うっすらと巻雲が群れを成して浮かんでいる。  さぁっと肌寒い風が吹き抜ける屋上に、彼女は一人佇んでいた。 「――先生」  静かに呼ぶと、長く艶やかな黒髪が翻る。 「なぁんだ、佐伯か」  そうして、叶典子は柔和な微笑みを浮かべた。  いつも何も考えていなさそうな、それでいて思案深いところがあって、でもなんだか子供っぽい――そんなぼくの知る彼女とは決定的に違うようで、とっさに二の句を継げなかった。  ぼくは後ろ手に屋上の扉を閉め、叶先生に歩み寄る。 「全部……分かってるって、言いたげですね」 「そりゃ、そーだろ。だって図書室で見ちゃったからな、お前の持ってたカードを」  ひょいっと肩をすくめる先生。  そうだ、あの時僕は『英国の伝統的料理文化』の貸出カードを持っていた。そして、資料貸与の意味を叶先生本人に尋ねた。  そうでなくとも学校で見たり聞いたりできるだろう。須藤が僕と接触していることが。  その意味を、叶先生は正しく理解していた。  背後から吹いた強めの風に押されるように、ぼくは叶先生の方へ歩み寄った。  さざ波すら立っていない湖面のように落ち着いた瞳に見据えられ、気の利いた言葉が思い浮かばずとっさに、 「――先生は、女の人が好きなんですか」  口に出してから後悔するどうしようもない癖が、また飛び出してしまった。  けれど、叶先生は――いつものように、あはは、と笑うのだった。 「直球だな~、お前は。デリカシーってもんがないよ、相変わらず」  そうして、不意に空を仰ぐ。角度がついたせいで、目元が前髪に隠れた。 「……まぁ、それはそうなんだけどな。けど、彩とは――こんな関わり方をするはずじゃなかった」  おそらくは、最近の出来事であるだろうに、叶先生はまるで懐古するように口端を柔らかく緩めた。 「ソフト部とハンド部はたまたま同じ部室でな。彩は一年生のリーダーを任されてて、雑用係として部室の戸締まりを担当していた。私は私でソフト部の顧問だったから、終わり頃に二人っきりになることが多かったんだよ」  叶先生は丁寧に話してくれた。まるで一つ一つの記憶を整理するように。  そうして二人きりになった日は、須藤を家まで送ることが多くなったのだという。初めはあの調子で頑なだった須藤も、叶先生が根気よく付き合うにつれ、心を開いた。  道すがら、須藤は先生に相談事をするようになった。母親が嫌いなのだと。生活のため、自分のために男性相手の客商売をしていることは理解しているつもりだが、それでも耐えられないのだと。  母親の背後にある男の影を見すぎたせいだろうか、須藤は軽い男性不信にも陥っていた。そして自分は自立した女性になりたいと願っていた。 「叶先生みたいになりたい、憧れてるんです――そう言われた時は、どうしようかと思ったな」  自嘲気味に先生は言う。私はそんな立派な人間じゃない、と繋いで、 「……後ろめたかったよ」  自分を、自分だけに心を開いて頼り切る須藤。叶先生はもしかしたら抱いてしまうかもしれない感情を必死に押し殺し、彼女の理想とする女性像を演じたのだという。 「ある日の夜だった。その日、私は放課後に市内教員の会合があって、部活には顔を出せなかった。まぁ、彩とも毎日一緒に帰ってるわけじゃなかったからな。特に変わりないだろうと思っていたんだが……夜になって、彩が、電話で家に帰れないって言ってきた」  母親とひどい喧嘩をしたのだという。否、正確には母親についていた客の男が、須藤の母親への態度に苦言を呈したのだ。その男性は母の一番の客で、たびたび須藤に対して父親面をした。それに逆上した須藤が、軽く頬を張られた。その場は騒然となり、須藤は号泣して走り去った。家には母親が待っているかもしれないから、帰ることができない。帰りたくない、行く場所がない―― 「あんときゃ、自分でも気がつかないうちに家を飛び出してたな。後で気がついたんだけど、片方がサンダルで片方がスニーカーだった。そりゃないだろって」  叶先生が迎えに行くなり、須藤は恥も外聞もなく(といっても、一応その場に人気はなかったようだが)強く抱きつき、泣き叫んだという。  仕方なく自分の部屋に連れて帰り、先生は彼女の母親と連絡を取った。お互いに冷静になるための時間が必要だ、とりあえず今日一晩は自分が責任をもって預かる、と。  ――電話のために外から戻ってきた先生を待っていたのは、肩を強張らせ、頬を紅潮させた須藤だった。思い詰めた表情で、告白、されたのだという。 「……あぁ、あてられちゃったかな、って思ったよ」  ぼくはそこで初めて口を挟んだ。 「どういう、ことですか?」 「私の気持ちというか、感情というか……隠そうとはしてた、けど、当方も未熟者なもんで。悩める思春期の子供にはきっと、悪影響だったろうな、と」 「須藤――さんが、本気じゃないってことですか」 「そうだな。本人はそのつもりだろうけど……」 「そんなの、分からないじゃないですか」 「いや、彩は――違う」  先生ははっきりと断言した。 「直感と言われればそれまでだけど、やっぱ、分かっちゃうんだよな。そういうの」  当然、先生は宥め賺して、説得しようとした。しかし。  事情を考えれば、無理もないかもしれないが――その日の須藤は明らかに尋常じゃなかった。先生に見放されたら生きている意味がない、だの、別に明日死んでも構わない、だのと泣きながら言うわけだ。今すぐ答えが欲しいと譲らない須藤を前にして、選択肢はなかった。 「最初は彩に合わせるだけのつもりだった。有頂天っていうのかな……随分盛り上がってた。ばれたらまずいからって、図書室の本に手紙を挟んでやりとりしようと提案したのも彩だ。彼女の気が済むまで……付き合ってやればそれでいいと思ったんだ」  だが叶先生の目論見は外れ、須藤はいつまで経っても夢から醒めなかった。それどころか、その許されざる恋に夢中になっていった。 「自分で自分が分からなくなっていった……。もしかしたら私は彩の勘違いを利用しているだけなんじゃないか。彼女のためといっておきながら、本当は自分のために彩を傍に置いてるんじゃないかって」  今の関係がお互いにとってよくないことを、先生は分かっていた。  だから、終止符を打った。 「――実はな、三月いっぱいで他の学校に転任することになったんだ」 「……え?」  思いがけない言葉に、僕は弾かれたように顔を上げた。  生徒指導室での叶先生との幾度とないやりとりが思い出される。  この間もそうだ。いつもと変わらない、冗談みたいな話――  いや、あの時、叶先生は言った。  ――そーさなぁ、あと一回ぐらいはおごってやるよ。  あと一回。それは、この学校を去るまでに。  ……そういうこと、だったのか。  どっと後悔の波が押し寄せてくる。あの時、ぼくは何を話していた? 確か、結婚がどうとか。いや、あの時ばかりではない。須藤もそうだったように、表面上の叶先生はぼくのような偏屈者でも一目置くような、出来た教師であり出来た人間だった。仕事ばかりで行き遅れてる――そんな型にはめたような独身女性への偏見ぐらいしか、言うことがないほどに。  それを先生は笑い飛ばしていた。どっかにいい男いないかなぁ、世間の男の見る目がないんだよなぁ、いいの先生はお前らが恋人なんだから――そうやって、なんでもない風を装って。  けれど、叶先生自身がぼくを諭したように。  一面的な主観からは想像もつかないような、思いがけない事情が人間にはある。  ぼくの言葉を、叶先生はいつもどんな気持ちで笑って言い返していたのだろう―― 「いいんだよ」  そうしてやはり何もかも赦したような顔で。  どうしていいか分からず、無言のまま、ぼくは一枚の紙切れを手渡した。  最終目的――「さよなら」という簡素な言葉を届けるために。  先生は大事そうにそれを受け取ると、去り際にぽんぽん、とぼくの肩を軽く叩いた。 「ありがとな、佐伯。ありがとう」  静かに屋上の扉が閉まる。夜が近づき、次第に冷たさが増していく風を受けながら、ぼくはしばしその場に立ち尽くしていた。  あっという間に三月下旬になっていた。  春休み前の終業式、叶先生はすらっとしたスーツ姿で、転出する教員として体育館の壇上に立っていた。挨拶を終えるなり、あちらこちらで大きな拍手や先生を呼ぶ声が響いた。手を上げて答えながら舞台を去る叶先生が、ちらっとこちらを見たような、そんな気がした。いや……気のせいかも、しれないが。  その姿を果たして須藤が見ていたのかいなかったのか。それは分からない。  須藤に会ったのは、首尾を報告しにいったっきりだ。 「……あの人に、渡した」  あえて名前は出さずに、叶先生からの最後の手紙だけを須藤に返却した。  ぼくの複雑そうな表情から察したのだろう。須藤は「……そう」とだけ言って、手紙を受け取り、去って行った。  叶先生の最後のホームルームに沸く教室をあとに(部活の生徒や他学年からも生徒がたくさん来ていた)ぼくは図書室へと向かった。  開放感からかこの図書室にも、生徒達の喧噪が聞こえてくる。ぼくはそこから逃げるように最奥へと進む。  薄暗くて埃っぽい空間の中で、少しでも光を浴びようとする健気な植物のように、窓辺に張り付いている幽霊を発見した。 「やあ、シオン」  肩越しに振り返り、ハルは軽快に挨拶をしてくる。 「ねえ、今日はなんだかみんな浮き足だってないかい?」 「そりゃそうだろ。待ちに待った春休みだからな」  鞄を机に置きつつ、答える。ぼくだって楽しみだ。なんせ学校に――教室にいなくて済む。馬鹿どもの耳障りな話を半ば強制的に聞かされることもない。 「そうか、明日から……。じゃあ、叶先生は今日が最後なんだね」  ハルにもまた事の顛末は話してあった。  恥ずかしいので最初、本多先生と勘違いしたことを省いておいたら、ほっとした顔をされた。 「よかった、シオンが顧問の先生と勘違いしないで」  ぎくっと肩を強張らせたのは言うまでもない。 「結婚を機に、生徒との関係を終わらせる……なんていかにもって感じだもんねえ。でもそうなると手紙にあった『最後の部活』のところと合わないしねえ」  まったくもってそうなのだ。ぐうの音もでないぼくの様子に、ハルはぱちぱちと目を瞬かせた後、えへへ、と笑った。 「……お疲れ様だったねえ、シオン」  お前、絶対気づいてるだろ。しかしハルもせっかく気をつかってくれたことだし、無用の指摘はしないでおいた。  現在のハルはというと、幽霊探偵の看板も下ろし、これまでどおりぼくの周りをふよふよと漂っている。 「……暇だなぁ、お前も」  本棚に整然と並んだ背表紙を眺めていたハルは、すいっと視線をこちらに寄越した。 「暇も暇さ。ああ、春休みかぁ。シオンが学校に来てくれなきゃもっと暇だなぁ……」 「まぁ、たまになら来てやらんでもない」 「本当かい? ――あ、でもシオンは自分の予定を優先していいんだよ。春休みだからねえ、旅行とかいいよねえ」 「旅行なんて行く予定はない」 「そうなのかい? でもどこか出かけたりするだろう?」 「しない」  にべもなく言い放つと、ハルはしばし黙りこくった。  睨むというほど不躾でもなく、眺めるというほど散漫でもない。そんなハルの視線が肌にちくちくと刺さる。ぼくは我慢できずに尋ねた。 「なんだよ」 「……君は、もしかして、ずっと一人でいるつもりなのかい?」  静かな問いかけが癪に障った。  最初に言ってただろうが、ぼっちとかなんとか。ぼくは適当に本棚から取った本を触りながら、 「ああ、そうだよ。一人で悪いか。ぼくは望んでそうしてるんだ」 「望んで……?」 「この学校にろくなやつはいない。それに今回のことで思い知ったよ、他人と関わったってろくなことがない。面倒事に巻き込まれて、嫌な思いをするだけだ。いいことなんて一つもない」  ぱらぱらと紙面を捲る。興味もない中身が、意味のない文字の羅列となって目に入ってくるだけ。それらはぼくの視界を素通りしていく。後には何も残らない。  沈黙が続いた。  お喋り好きのハルが、何故か口が重い。気になってちらっと窺う。  ――薄い光が差し込んでいた。  それは俯いたハルの背中を淡く包み、彼女の表情を薄闇に溶かし込んでいた。 「シオンはまるでぼくと同じだね」 「同じ……?」 「人と関われない、何の繋がりも持てない。ぼくは、幽霊――だから」  言われて、ぼくは今更ながらに思った。  いつから幽霊になったのか、ハルは分からないと言っていた。  彼女を見ることができたのは、話ができたのはぼくが初めてだとも。  じゃあ、それまでは?  どれぐらいの時間を一人で過ごしていたのだろう。  数えているのか、いないのか。そもそも始まりの時自体をハルが認識しているのだろうか。  それは――それは、きっと、  途方もない絶望の時間だったのだろうと、ぼくは思い当たったのだ。 「でもね、シオン。君はできないわけじゃないんだ。人と、関わらないでいるだけなんだ。やろうと思えばできるのに」  ハルの厚さに欠ける唇が、細かく震えていた。 「そんなのずるいよ。とんだ贅沢だ。それでもいらないっていうなら、必要ないなら――」  ――ぼくと、代わってよ。  ハルの顔に凄惨な笑みが張り付いていた。すべらかな肌は腐り落ち、体は血にまみれ、むき出しの骨を突き出して、ぼくに襲いかかってくる――  ――なんてことは、なかった。  確かに台詞にはぞくっとした。  今度こそ取って食われる、そう思った。  しかし、この幽霊はつくづく残念だと思った。顔を上げたハルは子供のように泣きじゃくり、それを隠すためにぼくに背中を向けて、宙で膝を抱えた。 「……ごめん、怖がらせたかな」  膝に額をこすりつけ、なおもぐずぐずと鼻をすする。 「そんなことできっこないのにね。でもだからこそシオンには後悔して欲しくないんだ」 「後悔……」 「……君はこの学校にはろくなやつはいないって言ったけど、でも、大切に思っていた人はいただろう? その人に言ってないことがあるんじゃないか?」  ぼくはじっとハルの言葉を聞き入る。  言っていないこと。言いそびれたこと。  今日を逃せばおそらく――永遠に、伝えられなくなること。 「怖がらないで、踏み出して欲しいんだ。君は……一人じゃない」  ――君は、幽霊じゃないんだから。  ぼくは立ち上がると、すぐさま踵を返した。振り返らないまま、ハルに叫ぶ。 「……ちょっと、出てくる。すぐ戻ってくる!」  混み合っている廊下を走る。ただあの人に伝えられればそれでよかったが、これが運命というのだろうか、人混みの中に見知った背中を見つけて、思わず呼んだ。 「須藤!」  突然の呼び声に、須藤は驚いて振り返った。ぼくだと分かるなり目尻を吊り上げたが、怒鳴る暇も与えられず、ぼくに手首を取られて声を上げる。 「痛ッ! 何っ……何なのよ!」  須藤の抗議も、周りの視線も気にならなかった。ぼくの鬼気迫る様子に気圧されたのか、須藤はなすすべもなく腕を引かれる。  教室にもいない。職員室にもいない。第二運動場に向かおうとしたぼくたちに、横から声がかかる。 「あ、おい、須藤……と佐伯? どうした?」  こちらもスーツ姿の本多先生だった。ぼくは縋り付くように尋ねる。 「あのっ、叶先生は?」 「えっと……先輩ならもう帰るって。裏門じゃないか?」  ぼくの目的を知って須藤が僅かに身を固くする。手首を掴んだままだと気づき、ぼくは手を放した。来たくなければそれでいい。ぼくはぼくのために行くんだ。  後悔したくないから。 「ありがとうございます」  それだけ言って、裏門へ走る。須藤がついてきているかどうかは分からない。  教員用の駐車場がある裏の通用口から出ると、ちょうど車と車の間に長い髪が見えた。ぼくは一生のうちにこれほど声を出したことがあっただろうかという音量で、思わず叫んだ。 「――叶先生!」  大きな花束を抱えた先生が、振り返った。  諦めずに、何度もぼくに向き合ったその瞳。  今までごちゃごちゃと頭の中だけで考えていたくだらないことが消え失せ、言葉が考えるよりも先に口を突いた。 「今までっ……ありがとございました。それと、何にも知らずに、今まで失礼な事ばっかり言って――本当にすみませんでした!」  ああ、なんて単純な。なんて簡素な言葉だ。  だけどこれが、真実の気持ちなんだ。 「先生に会えてよかったです。――本当に、本当にありがとうございました!」  見開かれていた黒曜石のような瞳が――不意に揺れた。ぽろっと一つだけ、大きな雫が溢れて落ちた。  叶先生の視線が、わずかに横に逸れる。ぼくはその時初めて、隣に須藤が立っていることに気づいた。  彼女もまた泣いていた。ぼくが今まで見てきた固い表情とは違う。まるで溶けかかった粘土細工でできたような、ぐちゃぐちゃの泣き顔だった。 「わっ――私、先生……私……!」  ひっく、としゃくりあげながら、須藤は声を絞り出す。 「ごめんなさい、私、たくさん迷惑かけて――先生に、たくさん……! でも、私、せ、先生のこと好きだったの……本当に、ううん、今でも、大好きです」  呆然としていた叶先生は、やがて花弁がゆっくりと開くように――柔らかい微笑みを浮かべた。 「ありがとな、二人とも」  駐車場の車の向こうで、目映いほどカラフルな花束を抱え、大きく手を振る。 「佐伯、お前は優しい奴だから。最初は怖いかも知れないけど、でも、きっと大丈夫だ!」  ぼくは先生に見えるよう、大きく頷いた。 「彩は――賢い子だから。ちゃんと分かってるんだよな、本当は。ゆっくりでいいから。お母さんを大切にな」  ごしごしと子供の仕草で涙を袖で拭うと、須藤もまた叶先生の言葉に何度も頷く。  ――さよなら。  そう言って、叶先生は学校を去って行った。  須藤はその場にしゃがみこみ、しばらくの間泣き続けていた。途方にくれているわけでもなく、仕方なくでもなく――ぼくは秘密を知る者として、彼女の気が済むまでここにいようと決めていた。  頼りない透明な壁がきょうもふわふわと揺れている。 「あーあ、先輩卒業しちゃった……ショック、サイアク、もうマヂムリ」  二年生へと進級し、クラス替えが行われた。新しい教室、新しい担任、新しいクラスメート――のはずが。  何の因果だろうか。またもやぼくは『ちー子』と同じクラスで隣同士という事態に陥っていた。 「新しい恋見つければいいっしょ」 「てか、諦めることなくね? 大学知ってんでしょ?」 「乗り込めってか。キョートなんだよキョート!」  かつての取り巻きは別々になったが、彼女の周りにはまた別の女子たちが群がっていた。話から察するに同じ部活らしい。……友達が多くて結構なことだ。  ぼくといえば、まぁ、人間すぐに変われるかというとそうではなく、相変わらず机にへばりついて文庫本を読んでいた。トルストイの『戦争と平和』――少し縁があったから、図書室で借りてきただけだが。 「あーもう、誰かあたしにイケメ――あっ」  ぎゃあぎゃあと騒いでいたちー子が短く叫んだ。ぼくの目の前をがぽん、と弧を描いて飛んでいく。  あまりに唐突なことだったので、自然、目で追ってしまった。  かしゃん、と軽い音を立てて携帯が教室の床を滑る。  一瞬だけ、葛藤する。  けど、そんなぼくを奮い立たせたのは叶先生の言葉だった。  ちー子が立ち上がるより先に腰を上げると、ぼくは自席のほど近くに落ちていた携帯電話を拾った。幸運なことに傷はついていないようだった。  隅についたほこりを手で払い、ぼくは思い切って顔を上げる。  ぽかん、としているちー子と目が合った。一秒ももたなかっただろう。ぼくは椅子に座り、お守りのように文庫に触れながら、 「……どうぞ」  と、携帯電話を差し出した。  ちー子は目を丸くしてぼくを見ていたが、やがて奪い取るように携帯電話を自分の胸元に抱き寄せ、こういった。 「――キモ」  ……逃れる術のない雪崩のような後悔が押し寄せた。どこが大丈夫なんだよ、叶先生の大ホラ吹き。かつて経験したことのない怒りと羞恥に耐えるべく、ぼくはひたすら文面を追った。ぼくの鬱憤が晴らされるような胸がすかっとする展開は当然なく、冒頭から続くロシア社交界の退屈な描写が延々と続いていた。 「お礼もちゃんと言えないなんて、ひどい奴らだな、そいつらは!」  弁当をつつきながらグチっていたぼくの目の前で、ぷんすか憤慨しているのは、今日も元気な(?)幽霊少女のハルだった。ぼくもさっきまでひどい胸焼けのような怒りを覚えていたはずなんだが、ハルが口をへの字に曲げてああだこうだと言っている様子を見ると、なんだかどうでもよくなってきた。 「それに比べてシオンは偉いな。ちゃあんと頑張っているんだね」 「……別に何も。現状変わらず。ぼくの話し相手は自称幽霊探偵だけだ」  その独特の響きを持つ固有名詞に、ハルは照れ笑いを浮かべた。 「ちょっぴり懐かしいね、それ。ぼくは結構気に入ってたんだよ」  口に運ぼうとしていたウインナーを弁当箱に戻すと――ぼくはやおら口を開いた。 「……またやってもいいぞ、幽霊探偵」 「えっ?」  驚き見開かれたハルの瞳に、一瞬、星のような煌めきが見て取れた。しかしそれも束の間、小刻みに首を横に振る。 「ありがとう……。でも、この前は調子に乗ってシオンに迷惑かけちゃったからね。ぼくはね、シオンがこうして話をしてくれるだけで、すごく嬉しいんだ」  そういって、ふふ、と微笑むハル。  しかしあの時、ぼくはハルの真意を知ってしまった。  ハルは、人との繋がりを痛切なまでに求めていた。それは死んでいても生きていても同じ――人の心があれば、ごく自然なことなのではないかと、今のぼくは思う。  幽霊探偵なんて言い出したのはきっと、ぼくを窓口としてハルがもっと、人と繋がりたいとそう思ったからじゃないだろうか。 「でも、楽しかったんだろ」 「そ、それは……」 「ま、あんなことが頻繁に起こったら困るけど」  わざとらしい咳払いなどを挟みつつ、 「友達が望むなら……やぶさかじゃない」  実は内心で用意していた台詞を言い切ると、ぼくは弁当をかきこんだ。  返事がないので、ちらっと横目で見ると――ハルは大きな目をうるうるとさせていた。 「……シオン、あ、ありがとう! 君って、君って本当に幽霊想いのイイ奴だね!」 「べ、別に……。って、オイ。飛び回るな、ちょっと怖いっ」 「これが浮かれずにはいられないよ!」  数千年の封印から解かれた悪霊のように、ハルは辺りを飛び回った。本棚からいきなり上半身だけが飛び出したり、ぼくの体をすり抜けたり――かなり心臓に悪い。  深いため息をついたところで、急に人の気配を感じた。 「……あんたっていつもここにいんの?」  小さな棘が生えたような声音には聞き覚えがあった。はっとして振り返ると、そこには不機嫌を顔に張り付かせた、須藤彩が立っていた。  ハルとの会話を聞かれていないだろうか。内心びくびくしていると、彼女はおもむろにぼくの対面に座った。 「昼休みになった途端、教室出て行くから何かと思ったら。何、あんたぼっちなわけ?」 「……別に」  相変わらずの歯に衣着せぬ物言いに、ぼくは仏頂面で視線を逸らした。 「まぁ、いいわ。それより、これ」  何がいいのかまったく分からないぼくの手元に、チョコレート菓子の箱が置かれた。コンビニでもスーパーでも必ず売っているプレッツェルにチョコがかかった定番のお菓子だ。 「あげるわ」 「……何故?」 「あげるったらあげるって。何よ、嫌いなの?」 「いや……好きだけど」 「じゃあ、受け取れば?」  何なんだ、その言いぐさは。叶先生の前で見せたしおらしい態度はどこへ行った? だが有無を言わさぬ圧力に突っ返せず、ぼくは不本意ながらそのお菓子を受け取った。 「お礼じゃないのかな? 彼女なりの」  そばに寄ってきたハルが楽しげに耳打ちしてくる。ぼくはぼそっと返した。 「お礼ってこういうもんか?」 「……なんか言った?」  訝しげな須藤の視線に、ぼくは慌てて否定しようとして――ふと思いついた。  とある問いかけをしよう。  イエスならばハルが喜ぶし、ノーならば意趣返しになる。  ぼくは笑みを噛み殺しながら、須藤に尋ねた。 「ところで須藤って」 「何よ?」 「――幽霊、見える人?」  ぼくの隣にいるハルが、にこにこと満面の笑みを向けている。  須藤はというと――苦いものと酸っぱいものを同時に口の中へ押し込められたような、複雑怪奇な表情を浮かべ、後じさる。  その様子にぼくとハルは密かに笑い合った。         
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