ひと足早い秋の虫

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ひと足早い秋の虫

4f61e93f-a661-44ec-8623-154bae44f7d1 「や、やめろ! やったのは俺だけじゃない。た、頼むからやめてくれ!」  腕をクロスさせて後ずさった男の背中はブロック塀に阻まれた。顔面を切り刻まれ片耳を失った男に、影が歩み寄った。 「俺だけじゃないだと? 何を寝ぼけてる。やめてくださいと懇願されて、お前はやめたのか」  突き上げたナイフが男の首に刺さった。ねじるように動かした切っ先に、喉骨がゴリッと鈍い音を立てる。(おびただ)しい血しぶきを浴びながら男を見る目は、赤鬼さながらの憤怒の色に染まっていた。 「やめたのかと訊いてるんだ。手を外せ、そして、あの人のように……」  息を吸う音が静かに響いた。 「やめてくださいって声をあげて頼め!」 「ひぁふぇ……」  切り裂かれた喉から聞こえる声は、言葉にならない空気音を漏らした。地面に落ちる血の音が激しさを増す。 「聞こえねぇよ外道が!」 「がッ!」  歯を砕き、深々と喉を貫いたナイフは力まかせに抜かれ、続けざま眼球に突き立つ。弾け散る房水(ぼうすい)。頭蓋骨とブロック塀に当たる刃先の音。  崩れ落ちた男に、両手で握ったナイフをハンマーを打ち下ろすように突き立てる。膝をつき容赦なく刺さるナイフに男の身体が揺れた。まるで生存を訴えるかのように。  民家の屋根に低くかかる月。町工場のブロック塀を枕に動かなくなった黒い(かたまり)。姿勢を低くして足を止めた猫が、驚いたように逃げていった。  立ち上がった影は、眉骨(びこつ)を越えて流れ込む赤い汗を、季節外れのブルゾンの腕で拭った。 「地獄に落ちろや悪党」  物言わぬ(むくろ)に吐き捨てた声は、吹き過ぎる八月の生ぬるい風に紛れて消えた。  (すす)けた街灯が、ゆらりと揺れる影をブロック塀に映した。駐車場の脇に生えたわずかばかりの草むらで、ひと足早い秋の虫が鳴いた。  手首に巻きつけた血の(したた)るタオルを引き抜き、包みこんだナイフをウエストバッグに押し込んだ影は、右手のこわばりをほぐすように開閉を繰り返した。その足元で、黒々と血溜まりが広がっていく。 「てめえの最後は俺が看取ってやったから感謝しろや」  唸り声ひとつで顔面を踏みつぶした黒い影は、静かに背中を向けた。
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