一、通り雨

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一、通り雨

 (かい)は焦っていた。昼前に家を出たときには、つるりとガラスのように澄んだ五月晴れの空だったのに、午後になってにわかに暗い雲が垂れ込めてきた。遠雷まで聞こえる。    坪庭に出しっぱなしにしてきた朝顔の苗箱が気がかりだった。ラジオの気象通報では終日晴天と報じていた。たまに信用するとこれだ。いつもなら用心深く、苗箱を縁側に入れて家を出るのだが、五月の陽気に油断した。ようやく芽吹いたかわいい苗たちを、できるだけ陽に当ててやりたかったのだ。  もしも苗が大雨に当たったら、貴重な「出物(でもの)」が混じっていた場合、台無しになる。それは櫂の存在意義にも関わる一大事だった。そして焦れば焦るほど、自宅にたどり着けない。花街のほとり、路地裏にある貸家に越してきて半年が過ぎた。いまだに、この迷路のように複雑な街並みに慣れることができない。 ――お寺の脇の坂を上がって、白い暖簾をかけた料理屋の角を右に。それから左。まっすぐ進んで、沈丁花のいい匂いのしていた生垣の家を目印にして、次の三叉路を右に。  覚えたとおりに歩いているはずだが、行きも帰りもすんなり行ったためしがない。いつも必ず曲がり角を間違え、思わぬ場所に出て途方に暮れる。うろうろと路地をさまよっていると背後から声をかけられた。 「あの、もしかして迷っていますか」  精悍な顔立ちをした若い男だった。シャツ姿に腰手拭いを掛け、素足に下駄。その服装(いでたち)から大学生であろうと見当をつける。目が合うと人懐こそうな笑みを浮かべた。 「さっきもそこの路地で見かけました。随分と急いでいるようだし」 「いや、あの……ええ。恥ずかしながら」 「どちらまで?」 「ええと、あの」  どちらまで、が説明できれば迷子になどならない。しかし、そこでふと思い出した。自宅の近くに、最近――。 「最近、このあたりで煮豆屋が店を始めたはずなんです。紅色の暖簾の。その近くまで」  櫂の言葉に、青年の顔がぱっと明るくなった。 「奇遇だな。紅色の暖簾だったら『()つき』でしょう。俺もその店に今から行くんです。急ごう、これからひと雨きますよ」  言うが早いか青年は、櫂の手首をつかんで走り出した。櫂は思わず身をすくめたが、青年の手のひらは乾いていて体温が低く、強引ではあったが不快ではなかった。石畳に騒々しい下駄の音を響かせながら青年は走る。走りながらしゃべる。 「俺はたまに、うぐいす豆を買いにいくんです。甘味はあまり得意じゃないが『香つき』のはなかなかうまい。あなたもそう思いませんか」 「……まだ買ったことがないんです」 「せっかくだから一度試してみるといい。俺のお師匠さんはたいそう気に入っていますよ」 「お師匠さん?」 「三味線の師匠です。何か一芸、身につけたくて通ってるんですが、そっちの稽古よりあっちの稽古のほうが多くなっちまって」 ――初対面の人間に平気で猥談をふっかける性質の人間か。  櫂が黙っているので、青年もそれ以上は喋らなかった。迷うことなく複雑な路地を駆け抜けていく。櫂が思っていた道順とまったく違う。心の中でため息をついた。 ――この方向音痴、どうしたら治るかなぁ。  やがて見覚えのある紅色の暖簾が見えてきた。『香つき』の屋号を染め抜いた暖簾だ。櫂の自宅はあの角を曲がってすぐのところである。 「ほら、あすこです」  青年の声をかき消すように、頭上で大きな雷鳴がとどろいた。冷たい風が路地を吹き抜けてくる。大雨の予兆だ。 「まずいな、降られちまう」  青年はひとりごちて、櫂の手を離した。 「もう、道は分かりますか」 「おかげさまで。助かりました」 「よかった。それでは」  そういって青年は急ぎ足で「香つき」の暖簾をくぐって店内に入っていく。ぽつりと大粒の雨だれが頬をかすめたかと思うと、バラバラと音を立てていきなりの大雨がきた。櫂も自宅に向かって駆けだした。 ――好きな匂いだった。  坪庭に出していたおびだたしい数の苗箱を縁側に運び入れながら、今しがた道案内をしてくれた青年のことを思い出す。強引で軽薄。しかし隠しきれない人の好さ。この花街でよく見かける大学生の印象とは少し違っていた。垢じみたところがなく、植物のような清潔感だった。そのくせ雄の匂いははっきりとまとっていた。  苗箱をすべて運び入れ、雨戸を立てて電燈を点ける。乳白色の丸い磨りガラスに橙色の明かりがぼんやりと灯った。割れるような音を立てて雨が屋根を打つ。雷の轟音が耳をつんざく。櫂は双葉の様子を念入りに調べた。ちょっと雨に当たってしまったが無事だった。 あの青年につかまれた手首を、櫂はそっと撫でた。それから鼻先で手首の匂いを嗅いでみる。はっきりと自分のものではない匂いがした。そして孤独な櫂にとっては稀なことに、好きといってもいい匂いだった。
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