二、雨後

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二、雨後

「あの、もしかして迷っていますか」  (はじめ)は先日、煮豆屋の「()つき」に向かう途中、道に迷っている男を助けた。はっと振り向いた男は怯えたような表情を見せたが、すぐに困ったように苦笑を浮かべた。 「ええ、あの……恥ずかしながら」  年ごろは哉と同じくらいか。少し年上かもしれない。全体に色素が薄く、抜けるような白皙と鳶色の柔らかそうな髪が印象に残る。花街の客というよりも、ここで生計を立てている女衆の庶子か、養われ者とでも言えそうな雰囲気の男だった。  そんな玄人じみた美貌の男が、花街の路地裏で迷っている。声をかけたのは、生来の人の好さゆえに見て見ぬふりができなかったのと、哉にしては珍しく、その男の雰囲気に心をひかれたからだった。  哉と変わらないほどの上背がありながら、体の線は細い。よく見れば目の色も、髪と同じ明るい鳶色だった。外国人の血を引いているのかもしれない。  話を聞けば「香つき」の近くまで行くという。とっさに彼の手首をつかんで駆け出した。  哉は、普段ならいきなり人に触れることなどめったにしない。しかしこのときはなぜか、幼い子どもに対してふるまうように、彼に対して世話をやきたくなった。  店の前まで来たときとうとう雨が降り出したので、その男とは慌ただしく別れた。そしてそのまま彼のことは忘れてしまった。哉の頭の中は、気難しい師匠の機嫌をどうやってとろうかということでいっぱいだった。 ――まいったな。お師匠さんをまた怒らせてしまう。  「香つき」の狭い店内は混雑していた。やっとのことで目当てのうぐいす豆を包んでもらった後、恨めしい気持ちで土砂降りの空を見上げながら店の軒先で雨宿りした。  三味線の師匠は気分屋のうえに潔癖な性分だった。濡れネズミで行けば間違いなく家に上げてもらえない。約束の時間に遅れるのはさらに嫌う。  約束の時間には既に遅れている。  濡れていくわけにもいかない。  そもそも、このところ師匠は機嫌が悪い(どうも哉のせいらしいのだが)。 どうあがいたところで、よろしくない状況には変わりがない。 ――つまり、どうしようもないのだ。うん。  そう思うと、かえって気が楽になってしまった。いつものようにおとなしく振り回されていれば、じきに機嫌も直るだろう。  うぐいす豆の包みがほんのり温い。炊いたばかりのを包んでくれたらしい。せっかく師匠のご機嫌とりのために買ったものだ。せめてこれは届けよう。  雨がじきに小降りになった。空がすこし明るくなる。哉は「香つき」の軒先を出て、濡れた石畳に下駄の音を立てて歩き出した。
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