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三味線の師匠の自宅兼稽古場は、この花街のなかでもひときわ華やいだ通りに面している。親族が地主なので、敷地も広々と贅沢だ。
哉が稽古場まで歩いてきたとき、ちょうど稽古を終えた弟子たちが門を出ていくところだった。彼らと顔を合わせないよう稽古場の手前でひと呼吸おき、頃合いを見計らってそっと自宅のほうに顔を出す。
師匠は自室で煙草を喫んでいた。入ってきた哉に気づいたが、冷めた横目でそっけなく応じる。
「あら。来たの。もう来ないんだと思ってた」
「すみません。雨に足止めされちまって」
師匠は、黙っていれば水際だった美男子である。この男ぶりのため弟子のほとんどは女性で、弟子入りの志願者もひっきりなしだ。ふだんは周到に隠している色好みが、哉のように気を許した情夫の前では、極端な女言葉となってあらわれる。
あだっぽい和服姿、美貌、性悪なところも含めて、哉は彼が嫌いではない。哉は持参したうぐいす豆の包みを差し出した。
「これ、どうぞ」
「なによ。私の機嫌をとってるつもりなの」
「はい。これくらいしかあなたのご機嫌をとるすべを思いつかなくて」
哉の言い分を、師匠は鼻で笑った。
「いただくわ。あなたも相伴なさい。これが最後のおつきあいになると思うから」
「は?」
「もうあなたとはおしまいにする」
――よっぽどのことをしたかな。心当たりは……ないんだがなぁ。
茶を淹れるよう言いつけられて、台所で湯を沸かしながら哉は反芻する。軽い気持ちで入った演芸会の会場で見初められ、やがて情夫になって一年あまり。振り回されてばかりだったが、捨てられるとは思いもしなかった。
思案しながら、茶碗を盆に乗せて部屋に戻る。小皿に盛り付けたうぐいす豆と箸も添えた。師匠は円卓に肘をついてまだ煙草をふかしていた。和服の袖からのぞく肘が白い。
「あなたはほんとうに……、人の気持ちに疎い子なのね」
煙を吐きながら独り言のように師匠が言う。
「はぁ」
「私がこのところ何に腹を立てているのか、見当もつかないんでしょう」
「すみません」
「そんなところが初心で、好いと思っていたんだけれど」
師匠は煙草盆に煙草を押し付けて火を消した。
「跡目を継ぐことになったから、ここは鈴子に譲るって話はしたわよね」
「一番弟子の鈴子さんなら、立派に切り盛りされると思います」
「だからァ。そういうところよ」
いらだった声を上げて、師匠は肘をついたまま哉を睨みつけた。ぞっとするような美しい顔だ。哉は叱られていることも忘れて見惚れる。
「母に外堀を埋められたのよ。相手の女なんて誰でもいいんだから、最初にきた縁談に乗ったわ。……あなたがちょっとは引き留めるそぶりをするとか、やきもちを焼いてくれるかと思ったのに」
「はあ」
――そういうことか。師匠は女と結婚して家元になるのだ。しかし哉に未練がある。
「惚れたほうが、負けってことよね」
「篤弥さん」
哉は思わず師匠の本名を口にした。師匠は諦めたような、寂しい笑みを浮かべて哉を見る。
「芸事をやるにしても、あなたは人への関心がなさすぎる」
「……」
「優しくて色男のくせに。残酷ね。泣かした女も男も、いっぱいいるんでしょ」
そう言いながら、箸をとって小皿のうぐいす豆を口に運んだ。
「ん-。やっぱりおいしい、『香つき』のうぐいす豆」
「また買ってきます」
「冗談言わないで。泣いてすがるなら考えなくもないけれど、あなたがそんなことをするわけないもの。もうここには来ないでちょうだい。お茶を上がったら帰って」
――泣いてすがる。そうか、そうしてほしかったのか。
乾いた気持ちで思う。かくして路地に放り出される捨て犬のように、哉は師匠からあっけなく捨てられたのだった。
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