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三、再会
六月に入り、梅雨入り前の初夏の陽気が続いていた。
櫂は時間ができると、自宅近くの「香つき」の店前まで行って人探しをしている。頻繁に同じ場所に立っているので、男娼と間違われて花街の客に声をかけられたり、「香つき」の売り子に怪訝そうに水を撒かれたりしたが、めげずに立ち続けた。
――たまに「香つき」の煮豆を買いに来るんです。
あの雷雨の日、道に迷っていた櫂を助けてくれた青年はそんなふうに言っていたはずだ。
――だから「香つき」の店前を張っていれば、また会えるかもしれない。
彼にまともに礼を言えなかったのが心残りになっていた。二十四年間生きてきて、誰かに親切にされた記憶はあまりない。この街に知り合いもいない。だからなのか、あのときの青年の親切が忘れられずにいる。
十日ほど張っているが彼には会えていなかった。すれ違っている可能性もあるだろう。
――あと三日。その間に会えなかったら、諦めよう。
そう思いながら今日も「香つき」店前の電柱のかげに立ち、道行く人をさりげなく目で追っていた。ふと「香つき」の売り子と目が合う。ちょっと気の毒そうな顔をされた。害をなす人物ではないと判断されたらしく、この数日は見て見ぬふりをしてもらっている。
その日は朝から晴天だった。午後になって気温が上がり、じりじりと太陽が照りつける。櫂は次第にぐったりしてきた。色素の薄い皮膚や目はもともと陽射しに弱い。
ふいにくらりと目眩がして、たまらずその場にしゃがみこんだ。道行く人たちはみな急ぎ足である。明るいうちから花街の路地でうずくまる男など、たちの悪い酔客と思われて終わりだ。ところが奇特にも声をかけてくれる人があった。
「ご気分がすぐれませんか」
ぼんやりとしながら見上げると、はたしてそこに探し求めていた青年の顔があった。とっさに言葉が出なかった。青年のほうも、見覚えがあると気づいたようである。
「あれっ? あなたは……。以前、お会いしましたよね」
「はい。またご親切に声を掛けていただいてお恥ずかしい限りです」
「立てますか」
櫂は青年の腕につかまり、どうにか立ち上がった。シャツ越しに触れる腕はたくましかった。青年は先日会った時と同じ、まっすぐで人の好さそうな笑みを浮かべている。
「あのときは道に迷っておいででしたが、今日はここで何を?」
「……えーっと、ですね」
ずっと会いたかった人物を目の前にして、うまく言葉が出てこない。青年は、櫂が黙っているのは具合が悪いためと解釈したようで、辛抱強く返答を待っている。
「……あなたにお礼が言いたくて、ここで待っていました」
やっとの思いで櫂が言葉を絞りだすと、青年は驚いた顔になった。
「ずっとここで待っていたんですか?」
「いえ、ずっとというわけではありません」
「そりゃそうか」
「あのとき、たまに『香つき』に煮豆を買いにくるとおっしゃっていたので。ここで張っていればまた会えるかもしれないと勝手に思い込みました」
「俺がそんなことを言いましたか」
「はい」
青年はしげしげと櫂の顔を見た。櫂は恥ずかしくて目をそらす。
「あの……、あのときは本当に助かりました」
「お役に立てたならよかった。お急ぎの用事でもあったんですか」
「はい。朝顔の苗を出しっぱなしにしていて」
「朝顔?」
「私は朝顔の育種を生業としていますので」
「へぇ、園芸家の方ですか」
「そんなたいそうなものではありません。食うのがやっとです」
「俺、真木哉といいます」
「玉乃井櫂です」
互いに名乗りあったところで、櫂はまたふらついた。哉があわてて櫂の身体を支える。
「どこか茶舗にでも入りましょうか。まだ具合が悪そうだ」
「いえ、あなたにもご都合があるでしょう」
「俺なら急ぎませんからお構いなく」
「それなら、自宅が近いのでお寄りください。むさくるしいところですが」
「わかりました。行きましょう」
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