煙草があれば

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煙草があれば

 夏になれば暑さのあまり窓を全開にする。そうして、外の駐輪場にある風鈴の音と蛙の鳴き声を聞きながら眠りにつく。外の音が聞こえているということは、こちらの発する音も外へ聞こえるのだ。それはいいのだが、外での話し声もまた、(本人たちからすれば不本意だろうが)聞こえるのだ。  この夜はやることを終え、明日に備えて寝ようと目を閉じる。翌日は朝から授業授業と立て込んでいたため、早く寝ようという気持ちはあった。しかし、今日も今日とて刺激の少ない一日で、物足りなく感じていた。もう少し、充実感を味わえる何かを欲しているが、何かあるはずもなく、ただ妄想に浸ることで睡魔を呼び寄せる。  そろそろ眠気の片鱗が見えるだろうか、というところで、何やら外に人の気配を感じた。私の部屋は駐輪場側の端にあるため、外の声がよく聞こえるのだ。  推測するに、隣の女子寮の一人であろうと思った。おそらく、他の誰かと通話しながら外へ出てきていた。言葉の内容を全て聞き取ることは出来ないにしろ、初煙草を目の前にしている気分であった。駐輪場の前には椅子とテーブル、灰皿まで用意されており、煙草を吸う様子は容易に想像できた。  女性がこのテーブルを使っているのを見たことがなく、物珍しさに好奇心を擽られたが、明日のことを考えて寝ようとした。しかし、どうも気になってしまう。初煙草はすぐ終わるものではなく、ぎこちなく進み、段々と眠気が興味へと変わっていった。そこで後悔する。私が煙草を持っていれば。煙草を吸う人間であれば。そうであれば、煙草を口実に外へ出て、関係を発展させることが出来たかもしれない。外出や対面の自粛を求められているこのご時世では、こんな機会は極稀で、ここで煙草を持っていないというのは、挑戦権を持っていないものとほぼ同義であった。  もちろん、その時に煙草を買い、同じく隣で初煙草を楽しむこともできた。しかし、コンビニは相応の距離があり、自転車がなければ、往復の間に彼女はここを立ち去っているかもしれない。自転車を取るために彼女と顔を合わすことには躊躇いがあった。それら以前に、私も煙草を吸った経験がないため、彼女に何かアドバイスが出来るわけでもなければ、ただ恥を晒す可能性もある。会話する気がない人間の顔を覗くために外へ出ることもおこがましい。結局私は、もう少しの勇気を出せずに壁一枚の隔たりに目を瞑り、耳を澄ます。  通話先の人にアドバイスをもらっているようなのだが、彼女の口調は何処か早口で、焦りや緊張といった感情が垣間見えた。いや、ただの性質なのかもしれないが。  話が一段落したようで、煙草の煙を一気に吸い込み、苦しそうに噎せた。それは特段可愛らしいものではなかった。むしろ、苦しさ故であろうが、荒く粗末なものであった。それなのに私は、魅力を感じた。声や話し方から、彼女は明るく目立つタイプの人間ではないと判断しており、ある程度の顔を想像していた。その彼女が初めてを経験し、苦しそうに噎せている。表情もおおよそ予想がつく。陰ながら大人の階段を登っていく様子に直面しているのだ、と改めて感じた。  そうしてやはり、煙草を持っていないことを後悔した。ここで他愛のない話でもして、あわよくば煙草仲間にでもなれば、このご時世でも人との関係を築くことが出来たはずだ。何より悔しいのは、私の存在が彼女に認知されていないことであった。これでは意識が一方通行になっていて、まるで片思いではないか。  どうにかして彼女に自身の存在を示す手段を考えた。だが思いついたのは、大音量で動画を流す、という哀れなものであった。それではただの生活音でしかない。虚しくなり、スマホに伸ばした手を引いた。  暫くして、彼女は草履とコンクリートの擦れる音を闇夜に響かせながら去って行った。音が遠のくに連れて波が引いていく感覚に襲われた。私はまたしても煙草を持っていないことを後悔したが、終始煙草を始める気などなく、ただ、あれば良かった、と思うだけであった。
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