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覚
霧に覆われた大樹の太い幹の影から妖が姿を現した。その姿は、まるで人の顔をした獣の様だった。尖った耳、六本の足、長く細い尾、切れ長の目、怪しく笑う口からは白く光る鋭い牙がずらりと並んでいるのが見えた。
覚は猫のようにしなやかな動きで下の方の太い枝まで降りると、兄弟神たちを見下ろした。
「おやおや、誰が私を呼んだかと思えば…漆面神社の兄弟神サマじゃあないか!」
覚はわざとらしく驚いて見せると、ニヤリと笑いながら仰々しくこちらに対する敬意など微塵も含まれていないお辞儀をした。
蛛は眉間に皺を寄せて覚を睨み、心の中で悪態をついた。
(嫌味なやつだ…話ができるとは言っても、所詮は下賎な妖か。)
「お会いできて光栄だ。して、下賎な妖の私に、何の御用かな?」
覚は蛛を見ながら、さっき蛛が心の中で言ったことを口にした。細い目の隙間から黄色い瞳が覗き、ぎらりと光った。蛛は小さく舌打ちをし、不機嫌そうにふいと顔を逸らした。
「お前に聞きたい事があってここに来た。都の…。」
「都の娘が攫われた、…だろう?」
覚は紅が言おうとした言葉を言った。その場の空気にピリッと緊張が走ったのを静璃は感じた。
「…知って、いるんだな?」
紅の覚を見る目が少し険しくなった。
「知ってるも何も私には全てお見通しなのさ。」
覚がニヤリと笑いながら尾をゆらりと動かした。兄弟神たちの反応を楽しんでいるようだ。書妖が言っていた通り、心を読むことができるらしい。
「なら知っていることを話せ。さもなくばそのムカつく面を燃やすぞ!」
炎が噛みつくように言った。覚はふふふと笑い、牙を見せた。
「おぉ怖や怖や。神というものはなんと恐ろしい!」
(炎、やめないか。私はできるだけ穏便に話をしたい。無駄な争いはしたくないんだ。)
紅は炎に小声で言い、宥めた。
「知っていることを話してくれないか?悪いようにはしない。」
覚はにやけ顔はそのままにかくんと首を傾げた。
「代わりに何を差し出す?」
兄弟神たちは少し黙ってしまった。まさか見返りを求められるとは想定していなかった。覚は続けて言った。
「私がお前たちに情報をやる代わりに、私に何を差し出す?何もなしに聞きに来たわけじゃないだろう?天下の土地神サマだ!大層な対価だろうなぁ!」
覚は高らかに笑った。兄弟神たちが何も持っていないことをわかってわざと煽っている。何も持っていないと言えば、知りたい情報も手に入らずにここまで来た意味がなくなってしまう。紅はこう言う他なかった。
「……何が欲しいんだ。」
覚は待っていたと言わんばかりに怪しい笑みを浮かべて言った。
「ではお前たちの後ろに隠れているその人間をいただこうか。」
紅の後ろに隠れていた静璃がビクッと身体を震わせた。
「年頃の娘は程よく肉がついてて美味いからな…。」
覚はくくくと笑い、舌なめずりをした。
「ふざけんな!!人間に手出しはさせねぇ!」
炎が怒鳴り声をあげ、覚を睨みつけた。怒気をまとった炎の身体からは、ちらちらと赤い火の粉が散っている。
「知りたい情報が手に入らなくてもいいのかい?このまま悪戯に時が過ぎればどんどん人間が攫われ、お前たちはただ指を咥えて見ている事しかできなくなる……じきに手遅れになるさ。都の土地神が、人間を見捨てることなんてできないだろう?」
覚は高らかに笑い、兄弟神たちの心を揺さぶるようにまくし立てた。細い目から覗く瞳がぎらりと光っている。
「今、そのたった一人の娘を差し出せば、他の消えた娘たちを取り戻すことができるんだ…どちらがいいかなんて言わなくてもわかるだろう?…さぁその娘を寄こせ。」
紅の額から一筋の汗がつたりその場の空気に緊張が走った時、静璃が口を開いた。
「……私が犠牲になればいいんですよね。」
「っ!静璃何を…」
紅は驚いて後ろにいる静璃を見た。静璃の肩が少し震えている。
「この身を差し出せば、他の攫われた子達が助かるかもしれない。なら、私は喜んで捧げます。」
「ダメだよ静璃さん!また他の方法を探せばいいんだ!君が犠牲になる必要はないよ!」
「それでは余計に時間がかかって本当に手遅れになってしまいます。私もこれ以上犠牲を増やしたくないんです。」
引き止めようとした桃に静璃はきっぱりと言った。桃はおろおろと静璃を見つめることしかできなかった。静璃はゆっくりと兄弟神たちの前に出て、覚を見上げた。覚は静璃を見て、目を細めた。
「愚かな娘だ…自ら喰われることを望むか。」
「私にできることはそれぐらいしかありませんから。」
静璃は覚を見つめ、静かににこりと笑った。その安らかな顔を見た覚の顔から怪しい笑みが一瞬消えた。静璃の顔を凝視して、小さく言葉を漏らした。
「その顔……お前華世の……。」
そして再度笑みを浮かべ、ふふふと笑いだした。
「そうか、そうなのか、ふふふふ、これは面白い…。」
兄弟神たちと静璃は何故覚が笑いだしたのかわからず、少し混乱していた。
「ここでお前を喰ってしまうのは余りにも惜しいなぁ…。気が変わった。今回は特別に教えてやろう!」
覚は態度を急変させて、ふふふと笑いながら楽しそうに話し出した。
「娘たちを攫っている奴の名は轟。私の古い友人さ。昔はこの辺りの優秀な森の護り神だった。今は落ちぶれているがな。」
「その神はどんな奴なんだ?」
紅が聞くと、覚は昔を思い出すように目を細めた。
「大百足の姿をしている図体のでかい奴さ。長い胴体を蛇のようにくねらせて森を駆け回っている。」
「奴の目的は?」
再び紅が聞くと覚は静璃を指さして言った。
「その娘さ。都の娘を片っ端から攫ったのも、全てはその娘を手に入れるためだろう。」
静璃は、この出来事に自分が関係していたことに驚きが隠せなかった。
「昔から頭に血が上ると何も聞こえなくなる奴でね。自分から邪神に堕ちたんだ。それらしい娘を手当り次第攫うなんざ馬鹿なことを…。」
「あ、あの!なぜ私なのですか?」
静璃が身を乗り出して尋ねた。覚は静璃の顔を見つめ、少し黙ってからボソリと呟いた。
「……本当にそっくりだ。あの頃と何も変わらない…。」
「え?」
静璃が聞き返すと、覚はふっと笑って言い直した。
「いや…。お嬢さん、それは本人に聞くといい。お前なら何も聞こえなくなった奴の耳にも声が届くかもしれない。」
先程の態度とは打って変わった覚に、違和感が残ったが嘘偽りはないようだった。覚の静璃を見つめる細い目は、どこか優しいようにも感じた。
「今どこにいるかわかるか?」
白夜が覚に尋ねると、先程の怪しい笑みを浮かべた妖らしい表情に戻り、にやりとした。
「探さなくとも、もう近くまで来ているぞ。」
覚がそう言った途端、周りの茂みの奥から凄まじく濃い瘴気が流れてきた。振り返ると、昨夜と同じドス黒い瘴気が立ち込めている。
あまりにも濃い瘴気に兄弟神たちの視界がぐらりと歪んだ。
「何だこの凄まじい瘴気は…!」
蛛が頭を抱えながら言った。
「気をつけろ!取り込まれるぞ!」
紅は兄弟神たちに喝を入れ、静璃を庇うように後ろへ隠した。流れてくる瘴気は次第に濃くなり、邪悪な気配がどんどん大きく近づいている。それぞれが神器を構え、茂みの奥の暗がりに目を凝らす。
「…来る。」
蒼が呟いた言葉で、全員に緊張が走った。
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