3.その回り道が、苦しさの入口

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―――――――― ―――― ぎゅっと目を閉じる。そして恐る恐る、ゆっくりと瞼を持ち上げてみる。何か変わっていてほしい。――お願い。 淡い期待を馬鹿みたいに持ち続けて、いつものぼやけた茶色の天井以外、何も瞳に映らない現実に打ちひしがれる。 何度も何度も、繰り返している。 「…珠杏」 閉め切ったカーテンの隙間から漏れる光で、もう朝をとっくに迎えていることは分かる。だけど窓を開けてみようとか、朝食を食べようとか、外に出てみようとか。そういう行動を起こす気力は何一つ湧かない。ただ屍のようにベッドに存在していると、遠慮がちなノック音と共に、ドア越しにお母さんの声が届いた。 「…どうしたの?」 「あのね、お客さん来てるよ」 「よーちゃん?」 「ううん、男の子。珍しいね」 予想だにしない答えに、僅かに体が動く。上体をゆっくりと起こして見つめていると、開いたドアの先には、いつもの仏頂面を携えた制服姿の男が立っていた。 「ゆっくりしてね」と声をかけるお母さんに一礼した男は、それでもドアと部屋の仕切りからこちらには足を踏み出さない。男の突然の登場に、私もただ固まった。 「……おい馬鹿」 「は?」 「さっさと着替えろ」 「え、なに…というかなんであんた制服、」 「お前1人サボるの許さねえからな」 全く噛み合わない会話は、臨の低く不機嫌そうな声で締め括られた。ちょっと躊躇いながら部屋に入ってきた男が私の顔にプリントを押し付ける。 【夏季休暇に伴う蔵書点検のお知らせ】 顔面の痛みを堪えて視線を落とすと、紙に書かれた文字に目が留まる。 『来月の"蔵書点検"、さぼったら殴るから』 ――"あの日"、図書委員の面倒な夏休みの雑用についての詳細を、可愛げの無い言葉と共に臨に渡したのは、私だった。プリントを強く握り締めた途端、印字されている文字が滲んで解読が難しくなっていく。 『高校近くの裏道の、横断歩道渡ってる時だって』 『居眠り運転で、ブレーキも全然間に合わなくてほぼ即死って聞いた』 『遺体の損傷が相当激しくて、お葬式の時も最後のお別れは無かったらしいよ』 節が亡くなったことは、当然直ぐに、夏休み直前の学校中を駆け巡った。 お通夜もお葬式も、クラスのみんなと参加したのだと思う。思う、だなんてあまりに不明瞭で無責任だ。だけど空っぽで、記憶が何も残ってない。節の名前をずっとずっと、心で唱えていた気はするけれど、自分の感情が何一つどのシーンでも、うまく着いていかなかった。 そのまま夏休みに突入して、自分もきっと心に傷を負ってる筈のよーちゃんは何度も自宅まで足を運んでくれた。 気丈に振る舞っていたつもりだ。「私は大丈夫だよ」と何度も言った。だけどよーちゃんは、毎回いろんなデザートを片手に会いに来てくれた。 心配をかけるわけにはと思いながらも、身体にうまく力が入らない。私は多分、怖いのだ。 窓を開けてみようとか、朝食を食べようとか、外に出てみようとか。普段何気なくやってることが出来てしまったら、節と過ごしていた日々があっという間に過去になっていきそうで、怖い。
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