1mも無い

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結果を言ってしまえば、結局あの男はあのまま風呂まで入り、作った飯を当たり前の様に食し、当然かの様に同じベッドで寝て帰って行った。 『明日は僕、お昼から出れば大丈夫だからー』 何を根拠に大丈夫と言っているかは知らないが、別にセックスする訳でも無くただダラダラと隣で過ごす常葉は何ら害は無い。 時折自分のついでにコーヒーを淹れてくれたりする気遣いもあったりもした。 我が家のコーヒーだけども。 そんな不透明な関係性も慣れてしまえば、さほど問題ではないのかもしれない。身体の関係があっただけの、得体の知れない男を家に上げるなんて、他人の話ならば自分でもそう思う所ではあるのだが、この関係性も悪く無いと思うのも事実。 これが俗に言う、人恋しいと言うものなのか。 ホットサンド用のチーズをほぐし、タッパーに移し替える作業をこなす中、佑はやれやれと小さく息を吐いた。 常葉の貞操観念も高くは無さそうだが、自分も大概だ。 「松永くん、紅茶の缶を運んでもらっていいかな?」 「あ、はい」 思考を遮る様に掛かったオーナーの声に厨房隣の倉庫へと急げば、オーナーが段ボールに入った缶箱を取り出している。 どうやら新しい茶葉を入荷したらしい。 「これいいかな?」 「はい」 数個渡されたそれを眺めれば表記された色々な茶葉の名前。 アールグレイ。 アッサム。 ダージリン。 そしてセイロンと書かれたそこにオレンジペコーとある缶箱。 (オレンジペコー…) 可愛い。 名前がやたらと可愛い。 オレンジの味がするのか?ペコーって可愛くないか? オレンジとペコーが合体したら、二倍増しの可愛らしさ。 そんな若干頭の悪さを伺わせながら、ほほうと凝視すれば、それに気付いたオーナーがふふっと眦を下げて、近寄った。 「オレンジペコーだね。好きなのかい?」 「あ、いえ、オレンジペコーって…オレンジの味がするのかな、って」 「あはは、違うよ。それは茶葉の等級、サイズの事だよ」 「へ?そうなんですか…」 くるりと缶を回し、むくむくと興味が湧くのはきっとこの名前のせい。 「今日の午後の休憩に淹れてあげよう」 「いいんですか?」 「勿論」 オレンジの味がしないのは残念だが、ひとつ増えた知識にふくふくと頬を染め、颯爽と店内へと缶を運ぶ佑は午後のお茶の時間を楽しみに待つのだ。 ***** 渋みが少なく、口当たりの良い飲みやすさ、とでも言うべきか。 ブレンド茶だと言う事と矢張りオレンジの味はしなかったものの、素直に旨いと思えた味に、オーナーへと礼を言う佑は妙にすっきりとした気分でまた業務へ戻ったのだが、 「……あ、あの、こんにちは」 ――――げっ… 声に出さなかった事は自分自身褒めてやりたい。 「い、いらっしゃい…」 だって一応、男子に生まれて二十五年。 それなりに外面の常識は培っていると自負している上に、今はバイト中。 露骨に顔に出す訳にもいかず、引き攣りそうになる表情筋を何とか持ち上げつつ、グラスに水を用意するとカウンターに座った女の前に置いた。 「えっと…コーヒーひとつ」 「はい…」 一体何しに来たのだろうか、この持田と言う名の女。 由衣の友人でもあり、思いっきり勘違いと誤解から糾弾してくれた女だけに、佑の苦手な人種に位置する事となったのは記憶に新しい。 偶然この店に? いや、それは違うだろう。明らかに店に入った瞬間から佑へと視線を向けていた。 と、言う事は… (俺に用事、なのか…?) そう考えただけで、げんなりとする心持ち。 フィルターから落ちていくコーヒーを眺めながら、洩れ出そうになる溜め息を飲み込み、温めたカップを軽く吹き上げる。 そこにドリップし、少し温めたコーヒーを注ぐとすぐに持田の前へと置いた。 「お待たせしました」 「あ、ありがと…」 角砂糖を二つに、ミルクを少々。 ティースプーンでくるりと掻き回し、カップに口付けた持田はちらりと佑を見上げた。 「あの、松永くん…」 「…はい」 普段から客の少ない時間帯ではあるが、今日は誰も居なくて良かった。 気まずさの漂う店内に、複雑な表情の客と顔面が引き攣りつつある店員。火サスにも負けない重い空気の中、がばっと頭を下げた持田の勢いにカップが揺れる。 「あ、あの、ごめんなさいっ」 「―――は?」 行き成りの謝罪は佑の眼を丸くするだけ。 訳が分からないと首を傾げれば、持田が震える声で続けた。 「私、全部由衣の話を鵜呑みにしちゃって…」 なるほど。 そう言う事か。 「その…あの後皆で由衣に問い詰めたら、二股してたとか、本当の事話してくれて…でも、不安にさせた松永くんも悪いとか言ってて…」 ――――でしょうね。 ぎりっと握りしめた拳は行き場も無ければ、やりようもないなんて切ないが過ぎる。 「それで酷い事言っちゃった手前、意地になってたんだけど……私はやっぱりちゃんと謝りたいって思って、その…色々と人伝に聞いて此処に来たの…本当にごめんなさい」 「そうだったんだ…」 何となくだが、安堵出来たのは此処に来た理由が分かったからだろうか。 ふぅっと小さく息を吐きながらも、ふふっと困った様に笑う佑は緩く肩の力を抜いた。
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