遣らずの雨

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取り付く島もない真顔の美形の対応。 コンロの汚れの如くこびりついていた女達も自然と後退りするのを幸いに、一瞥もせずにすっと前を通り過ぎると、常葉はくんっと自分のコートに鼻を寄せた。 (変な匂いついてなきゃ良いけど) 飲食店だと言うのに、匂いがきつい女共ばかり。 自分の恋人とは全然違う。 佑に会いに喫茶店に行くと柔らかい甘さのある香りが漂っていると言うのに何が違うのか。 (ま、いいけどよ) そんな若干のイライラを抱え、目的地へと着くと主人は留守。 まだ戻ってないのかと言う感情とスマホにも何も連絡がないなと言う事実。 前までの常葉であれば、ここでまたむっと眉間に皺のひとつでも寄せたのであろうが、今日は少し違う。 いそいそと取り出したのはキーケース。 そこから取り出した鍵を鍵穴へと差し入れ、回せばカチリと小気味良い音と手に伝わる感覚に身体がぞくりと粟立つ。 (開いた…) 扉を開き、中へと入れば家主の居ない部屋がガランと物悲しい雰囲気すらあるが、ここは佑の家。 妙な高揚感は、思わず常葉の頬を赤らめ、ドキドキと鳴る心臓に手を当てた。 「おじゃましまーす…」 靴を脱ぎ、キッチンを横目にベッドのある部屋へと進み、入り口脇に荷物を放る。 (合鍵って最高ー…) 拭いきれない優越感。 未だドキドキしながらベッドとテーブルの間に腰を下ろし、スマホを取り出した常葉だが、ふっとそこに目が止まった。 テーブルの上にあるイラストの束。 「……何だ、これ」 柔らかい色使いのそれらにじっと眼を通す。 全て作者は違うも、どれも似た雰囲気のイラストは淡く優しい色にふんわりとした線の柔らかさが特徴的だ。 (もしかして…これって…) 佑の絵本のイラスト? 近くにあった封筒を手に取れば、そこには出版社らしき社名が表記され、疑念は確信へと変わった。 そう言えば今日は出版社の人間と会うと言っていた日。 大方絵本のイラストはダメ出しされたのだろう。 (それでこんなもん貰ったのか…) つまり、それは、 「佑のパートナーを此処から選ぶって事?」 口に出してしまえば、歪む常葉の顔に濃い陰影が刻まれ、ちっと出てくるのは舌打ち。 「はあああ…?」 面白く無い、なんて。 そして全てのイラストを見終えた常葉が思う事はただひとつ。 「何これ…全然駄目じゃん、使えねーっつのーの」 確かに佑の本の雰囲気には合っているが、それはあくまでも合っている、だけだ。 ピッタリとまでは行かないこの気持ち悪さ。 乱雑にテーブルの上へと戻されたイラストを見詰めしばし考え込んでいた常葉だが、 「あれ…?」 っと、少し間の抜けた声にゆっくりとそちらに顔を向けた。 「あ、やっぱり来てたのか」 鍵が空いていた事に驚いたと笑いながら戻った佑がビニール袋を台所に置きながら『合鍵使ったんだ』と笑ってみせる。 ーーースイッチは、オンだ。 「おかえり、佑。買い物行ってたんだ」 「あぁ、ちょっとな」 少々ぎこちない返答だが、気にもしない常葉はねぇねぇーっと甘えた声で恋人を呼ぶ。 「何、どうした?」 早速料理に取り掛かる気なのか、エプロンに着替える途中の佑がひょいっと顔だけを常葉へと見せると、あっと口を開いた。 テーブルの上にあるイラスト達。 (しまった…) 片付けもせずに夕食の買い出しなんて行ってしまった所為でこうして常葉に見つかってしまうとは。 別に悪い事をしている訳ではないものの、これでは絵をダメ出しされたのだと気付かれてしま、 「これって、絵本のイラストに選べって事?」 気付かれていた。 (クソほど恥ずかしい…普通に…) 絵本作家志望なのに、教えたにも関わらず、結局絵も描けないとか、笑われてしまうのではと不安も過ぎる中、 「佑さぁ、絵本の絵って僕が描いたら駄目なの?」 ーーーーーえ? 見開かれた佑の眼の中で常葉が自分の荷物からスケッチブックと鉛筆を取り出すとさらさらと何やら描いていく。 ものの数分、未だ立ち尽くした侭の佑へとそれを見せる常葉はふふっと口角を上げた。 「こんな感じ」 「う、わ…」 そこに描かれているのは、愛らしい女の子。 前に書いてもらった少女と同じ、まさに理想の主人公と物語にも出てくる動物達まで描かれている。 スライディングの勢いで近寄る佑に、びくっと常葉の身体がのけぞるも、ほわっと口を開けた侭の表情の年上の男のイラストへの集中力は半端ない。 「お前…マジで上手いな…」 「まーね。僕一応これでも優秀な方だし」 可愛い、全部が可愛い。 その上、何たる安心感。 (やっぱ常葉の絵の方が好きだ…) 白黒にも関わらず、この絵のタッチと雰囲気にキラキラと星が鮮やかに眼を覆う。 「気に入った?」 「いや…マジでいい…」 この少女をもっと生かしたい。 例え夫の高血圧を気にする妻の作る食事の味くらい薄かったキャラでさえも、もっと肉付け出来そうな、創作意欲が湧くとでも言うべきか。 「だったら、ね?僕でいいじゃん」 そんな相乗効果も相まって、さらりと髪を流しながら、佑の顔を覗き込む常葉にドキリとしない筈もない。 「ほ、ほんとに、いいのか?」 「勿論。僕と佑ならもしかしたら今までのよりも、もっと良い作品出来るかもよ?」 「そ、うかな…」 ちらりと見遣るは、買ってきたばかりの刺身とアラ。 海鮮丼とアラを噌汁にして、常葉のご機嫌を伺いつつ、絵のノウハウを教えてもらおうなんて思っていたが、どう考えても此方の方が確実だ。
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