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背後のテーブルから聞こえた声に、動きを止めた佑は気付かれない様にゆっくりとそちらへと耳を傾ける。
やぎくん。
もしかして、いや、違う人間かもしれない。
「勿体無いよねぇ、あの展覧会出せるとか、将来にも響くのにさぁ」
「何かやりたい事が出来たんで~とか、本人言ってるらしいけど」
「やぎーらしいけどね。でも、あの子の絵って展覧会のメイン、目玉扱いだったのに…」
「そこで知り合った企業とか資産家とかにも眼を掛けて貰えるだけの実力あるし、卒業後の仕事とかも安定するかもなのに、余計に勿体ないわ」
すぅっと冷静になる頭。
ダスターを持つ手が冷たくなるのを感じながらも、だらりと流れる汗が酷く不快だ―――。
家に帰ってからも、あの女性達の言っていた事が忘れられない佑は、隣で課題をやっている常葉を盗み見た。
銀色の髪は高い位置でくるりと丸められ、 しっかりと見れる横顔は見惚れるくらいに綺麗だとぼんやり思う佑は手元の紙にぐりぐりと不規則に線を描く。
(ダメだ…集中できん…)
本当に彼女達の言っていた人物がこの男の事なのか。
やぎ、と呼ばれていたのは知っている。
だったら十中八九、常葉の事だろうと思うけれど、情報が少なすぎて苛立ちすら出て来てしまう。
(つまりは、)
何らかの展覧会があり、そこに常葉が選ばれた、メインで目玉にされるくらいの条件付きで。
しかし、それを辞退すると言っている。
けれど、その展覧会とやらは将来を左右するくらい影響のあるもの。
――――……
え、
(それを辞退したの、コイツ?)
絵本作家になりたい。
もし、大学時代にそんなチャンスが佑の前に転がってくれば、自分はきっとなりふり構わずそれを掴んでいただろう。
将来の夢に続くかもしれない、そんな大きなものならば。
常葉にとって、今回の事はそれと同等の事ではないのか?
専門の学校に行っているくらいなのに――。
(何でだ?)
『何かやりたい事が出来たんで~とか、本人言ってるらしいけど』
あぁ?
(もしかして、だけど…)
指から零れ落ちたシャープペン。
ころころテーブルの上を転がるそれを拾い上げた常葉の笑顔に、佑は上手くは笑えない。
*****
タイミングが悪い時は本当に悪い。
オーブントースターが壊れたと思ったら、洗濯機も壊れた。
いきなり浮気相手が訪ねて来たその直後に本命彼女もやってきた、そんな感じだろうか。
「……え?」
「だから由衣ちゃんよ。あの子会社の上司と不倫して、今奥さんにもバレて泥沼なんですって」
やぁねぇ、なんて言いながら作った酒を出す安達に佑はじっとりと眉を潜めた。
「あんたに言わなくてもいいかなと思ったんだけど、これで本当に由衣ちゃんが最後の砦だとか何とか、あんたに泣き付いてきても困るだろうと思って。警告よ」
「えぇ…ま、マジか…」
安達からの、いつもの呼び出しにほいほいと来てみれば、衝撃的事実に出してもらった酒に手を伸ばす気持ちも無くなってしまった。
まさか二股からの不倫にまで爆走まっしぐらだと想像出来る訳も無い。
「大方友人達にも相手にされなくなって、そこに声を掛けてくれた既婚者に絆されて、ほいほいと色んなとこ開いちゃったんでしょうね」
「上手くねーよ…」
「分かってんの、佑」
「あー…理解はしたけど…その、何て言うか…」
彼女がそこまで落ちぶれてしまうとは。
恋人関係も解消され、もう何ら関係が無い相手だと言うのに、口内に感じる苦味が気分を不愉快にする。
「会社も退職する方向で進むみたいね」
「お前凄いな…そんな情報何処から来てんの?」
「あたしはこまめにSNSもいじるし、大学のグループだって遣り取りしてんのよ。何が仕事に繋がるか分からないのがサービス業だしぃ?」
「へ、ぇー…」
安達のお気に入りであるニットから覗く美しい三角筋。
それをぼーっと眺めていると、不意に溜め息と共に声を掛けられる。
「あんた…変に同情なんてしちゃ駄目よ」
「え、あぁ、うん…」
歯切れの悪い佑の返事に心許なさを感じたのか、ぴくっと眦を釣り上げる安達の双眸鋭い。
学生時代から真面目ではあったがこの友人が罪悪感を感じる事等一つも無い、ただの元カノの不祥事だ。それでも何らかの思う事があるのは理解出来なくも無いが、変に肩入れするのも如何なものか。
(こんな広い世界には自ら穴掘って落ちていく奴なんて当たり前の様に居るのにね)
「佑、優しいだけじゃ駄目なんだからね」
「うん…まぁ、そう、だよな…」
もう一度、しっかりと念押しする安達に佑は苦笑いを浮かべた。
――――本当、ダメだ、こりゃ…。
分かっているからこそ、思い出された由衣の笑顔の向こうに居る、銀色の髪を持つ人影に酷く泣きそうになるのだ。
*****
十二月に入る。
寒い、だなんて当たり前。
白い息で前が霞むのもこの季節ならではだと思いながら、バイトを終えた佑は待ち合わせ場所へと足早に進む。
常葉に会うのは三日ぶり。
(さっむ…)
ひんやりと夜の黒に紛れて肌を突きさす寒気に首を竦めて、うぅぅ…っと唸る佑だが、目的の場所に既に人が居るのを確認すると慌てて小走りにそちらへと近づいた。
「わ、悪い、遅くなった、」
「大丈夫だって。つか、体調良くなった訳?え?マフラーは?病み上がりにこんなに寒いのにさぁ」
三日間、体調が悪いのを理由に、佑に家に来るのを禁じられていた常葉。
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