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濃い鼻に吐く油の混ざった匂い。
咽せ返りそうになるくらいの匂いに一瞬顔を顰めた佑は窓を見遣るも一枚も開いていない。
「窓開けちゃ駄目なのかよ…」
「だって寒いし、風で倒れたりなんかしたら目も当てらんないじゃん」
「風?」
倒れるとは、と首を傾げそうになった佑だが、はっと気付いたのは一枚の大きなキャンバス。此方を向いていないそれは、かなりのサイズだ。
横長のそれは両手を広げても全然足りない上に、縦のサイズも見上げる程に大きい。
「…絵、だよな」
「こっち、回って見てよ」
常葉に手を引かれ、キャンバスの前に回った佑の眼がそれを映し出すと同時に大きく見開かれた。
そこにあったのは油絵。
蕩けそうな程色鮮やかに塗られたそれは、確かに見覚えがある。
今にも此方を振り向きそうな、おさげの女の子の後ろ姿、広がる豊かな緑の森と彼女の歩く道の先は分かれ道。
花や蝶、鳥も描かれ、まるで動き出さんばかりの描写は深い澄んだ空気までも感じそうだ。
それが二メートル以上のサイズのキャンバスに、まだ濃い匂いを纏って。
「…今まで、描いてたのか?」
「そう、ずっと描いてた」
気の利いた言葉が出てこない。物書きとしては本当に致命的過ぎる。
けれど感情よりも本能的な、この絵の圧迫感と生々しさにごくりと喉を上下させる事しか出来ない佑は繋がれていた手をぎゅうっと握り締めた。
(す、げぇ…)
純粋に出た言葉は月並み以下。
「これさ、展示会用のなんだよね」
「え」
眼を白黒させる佑をくすりと笑い、常葉は続ける。
「一度は断ったけど、まぁ主催者側がしつこくて。だから描いてみた。どうよ、これ大作じゃね?」
二人手を繋いだまま、目の前の作品を見詰める。
キラキラと星が降るような、花が香るような、風が頬を掠めるような、淡い色合いのもうそこに春がくるような、それ。
「これ、絵本を開いたみたいな絵を想像して描いたんだ」
「…うん」
このおさげの少女は、佑の絵本に出てくる少女だ。
佑が一目惚れしたと言っても過言では無いこの少女、絵本に見立てて描かれたこのキャンバス内で異質な程に美しいと言える。
これを、会えない時間に描いていたなんて、
「い、一応何て言うか、」
「…うん」
「サプライズ、的な、」
常葉を見れば少しだけ赤い耳が眼に入る。
サプライズと言う事は佑を驚かせたくて描いたのだろう。だからこそ、何も言わず、ただ自分だけでひっそりと時に気合をチャージする為、癒される為、佑の元を訪れたり、写真を要求していたのだ。
いや、でもそれにしたって、
「お前…サプライズ下手くそだな…」
「え、っ、な、んでだよっ」
「正直付き合いたてに、あんな会いに来なくなったり、普通は不安になったりするもんなんだけど?」
「え、だって、僕サプライズとか初めて、だったしさぁ、」
ーーーーあぁ、だと思ったよ。
やり慣れていない、不器用さを感じていたのは間違いじゃない。
そして、何かをやり遂げようと思っているのだろうと見守っていたのは間違いじゃなかった。
「すごいな、お前…」
目の前の絵を見て心からそう思える。
まるで泣きたくなるくらいに心を揺さぶられる。
感動から、繋がれた手の温もりから、常葉が好きだと、その気持ちを抱きしめたくなる。
「ねぇ、佑…」
「うん?」
「僕、ちゃんとやれただろ?」
「…は?」
ゆっくりと常葉を見遣れば、ばちっと絡み合う視線に、琥珀色の目がくるりと揺れた。
「僕、何も犠牲にしてない。佑が心配しなくてもやれた。僕の為とか、そんな言葉使わせないでいいくらい、出来てるだろ?」
「とき、」
「だから、僕をそばに置いてよ。ちゃんと出来るからさ、」
ぎゅっと抱きしめたのは佑の方からーーーー。
自分より上背のある男の首をしっかりと抱きとめ、今更になって己の言動を思い出し唇を噛み締めた。
飄々と、物事にこだわらない男に見えるけれど、まだ学生の綺麗な男。
ずっと怖がっていたのかもしれない。
また何か常葉の負担になると思った佑が自分の元を離れようとする時が来たら、と。
(馬鹿、だ)
そんな事を思う常葉も、思わせていた佑も。
もう佑は常葉を手放せないと言うのに。
絵の中にある分かれ道。
きっと、この先二人で生きていく中でも自分達の前に分かれ道なんてきっと当たり前に出てくる事だろう。
二つに分かれたものから、幾つもの数に分かれた道まで。
でも、互いに違う道を歩んだとしても、その先がひとつになっていれば、それでいいのだ。
歩んだ先で出会って、二人また同じ道を行けば、それでいい。
どれほど時間が掛かっても、きっと出会えると信じたい。
「常葉、」
「子供っぽいって思う…?」
「思うわけないだろ…」
だって、それは佑の願いでもある。
「お前はずっと俺のだよ…」
小さく呟かれた声は、耳をすまさないと聞こえない。
けれど、常葉には伝わったのだろう。
誰も居ない部屋で、濃い油の匂いが漂う中、嬉しそうな笑う声と、折れんばかりに抱きしめられた佑の潰れた様な声が廊下まで聞こえたのだからーーー。
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