ノンシュガー

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「そうかい?」 それでも何も聞かずにポンポンと背中を叩いてくれる大人な対応のオーナーに、またぎこちない笑みを返す佑は、無意識に項に手をやった。 十日程残っていた噛み跡。 指先で触れるとざらっと伝わっていた痛みも傷跡も、今は綺麗さっぱりと消えている。 時折思い出していた違和感の様な疼きも、執筆活動や日々の生活の忙しさで、ようやっと感じる事も無くなってきていたと言うのに、彼の姿を見てしまった今、蘇ってしまった。 それは美形な男と一夜を共にしたと言う、うっとりするような感情では無く、 (…アイツ大学生だったのか…) 年下だとは思っていたが学生だったとは。 (クソみたいにセックスの上手い学生に慰めて貰うとか…) 少し僻みにも似た惨めさだ。 酔っ払いの戯れの如く、あまり記憶は無かったものの、痛みと気持ち良さは覚えている。 あのトリッキーな思考も。 そう言えばあの千切れたネックレスも、鼻を噛んだティッシュの様にゴミ箱へと放っていたあの男。 (…ん?) そう言えば、常葉、だった筈。 だが、今呼ばれていた名は青柳。 もしかして、別人? 洗いあげたフォークやスプーンを吹き上げながら、またこっそりとテーブルに着き、メニューを眺めている銀髪の後姿を眺める。 俯いていた顔がふっと上がり、律子に向かって手を振り、注文を告げた。 ―――…うん、 (やっぱり常葉だよ…) あの綺麗な顔は中々忘れられる物でもない。その上セックスまでしていると言う衝撃事実も付加されているのだから当たり前だろう。 だからと言って、常葉が自分を覚えているかと問われたならばそれは否。 尤も、覚えていようと覚えられていまいとどうでもいいのだけれど。 「佑くん、ハニートースト一ついいかしら。ドリンクはブレンド一つね」 「あ、はい」 どうやら常葉のオーダーらしい。 甘い物が好きなのか、と食パンを取り出し厚めにカット。 未だこちらには気付いていない彼に意図せずとも安堵した佑は素早くトースターにカットしたパンを入れた。 あと数十分で今日の仕事も終わる。 このまま気付かれる事無く、今日は帰ろう。遅かれ早かれ、この辺の学校に通っているならばまた再会する事はあるだろうが、その時はその時だ。 もしかしたら気付かないままかもしれないし。 焼き上がったトーストに生クリームを絞り出し、隣にはバニラアイス。 スライスした苺とメープルシロップをたっぷりと流し掛けると、最後に粉砂糖を満遍なく振った。 隣を見ればオーナーが淹れ終えたコーヒーをカップへと注いでいる。 タイミングもちょうど良かったようだ。 待ち構えていた律子がトレーの上に出来上がったばかりのコーヒーとトーストを乗せた。 が、 「僕が持ってくよ、重いでしょー」 律子の背後からひょいっとトレーを持ち上げた長身の男がふふっと笑顔を向ける。 「あらあら、いいのかしら」 孫くらい年が離れているとはいえ、男の持つ美に真正面から当てられたのだろう、頬を赤らめる律子はまるで愛らしい少女のよう。 そんな仕草を前にゆったりと唇を持ち上げた常葉だが、ふっとカウンターの向こうに視線を移動させた。 ばちっとかち合う視線。 「………」 「………あれぇ」 一瞬何見てんだよ、的な副音声が聞こえたのは気のせいだろうか。 だらりとこめかみから流れた汗は冷や汗だと理解した佑だが、日本人離れしていると第一印象で思っていた顔の真顔は迫力が増すのだから仕方ない。 しかし、 「佑さんだぁ」 ぱぁぁぁっと擬音が背景に見える程に破顔したそれ。 器用にトレーを持った侭、カウンターに腕を乗せると、常葉はずいっと前のめりに笑顔を向けた。 自分の事を覚えていたらしい。 あの時、たった一晩の相手だが、矢張り初めての男相手のセックスだったと言うだけあって、平凡で量産型の佑であっても記憶には残ってくれたのだろう。 「ど、うも」 「えー、ここで働いてたんだ。知らなかったー」 「いや、三か月前くらいからだけどな…」 「へぇ、三か月前」 にやっと笑うその顔に、しまったと青くなる佑の脳内に光の速さで色々な憶測が生まれた。 三か月前と言えば、常盤と一夜を共にした頃。 連絡先も交換する事なく、『それじゃ』『バイバイ』とあっさり別れ、そんな自分が常葉の学校と近いであろうこの喫茶店にバイトとして働くなど、もしかしてストーカーか何かと思われているのでは? 偶然の出会いを期待し、探していたと、かなりの危険人物だと警戒されるのでは? そんな無駄に、且、絵本作家になりたいと言うだけはある壮大な想像力を繰り広げる佑はへらっと愛想笑いを浮かべると、『じゃ、後片付けあるんでー…』と厨房の方へと走り込んだ。 ぽかんとその様子を見詰める夫婦と、呆気に取られた風に眼を丸くする常葉を置いて…。 ***** 十八時になり、仕事を終えた佑は夫婦に挨拶をすると裏口から店を出る。 これからスーパーに寄り、三十パーセント引き、ラッキーならば半額の総菜を購入し帰路につくのがいつものルーティーン。 だが、今日は違う。 通りに出る細い路地に人影を見つけると、びくっと身体を揺らしたのも一瞬。 「……何してんの?」 「遅いよぉ、ねぇ、飯食いに行かない?」 「いや、だから、何で待ってんだよ…」 「あ、別に奢りとか期待してる訳じゃないから安心して」 「分かった、まずは挨拶からな。はい、こんばんは」 「皆の誘いも断ったんだから責任取ってよー」 どうしよう会話のキャッチボールが出来ない。 こだまにもならないんですけど、助けて金子みすゞ。 「…………常葉、待って」 ぎりっと拳を握り、そう絞り出す様な佑の声に、ようやっと常葉がふふっと笑みを見せた。
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