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荒ぶる母
お母さんのほほ笑みがちょっとずつ溶けて流れ落ちていくのがわかった。洗い物していた手がとまり、つかの間の沈黙が訪れた。時計の針の動く音が聞こえる。時刻は7時15分。お母さんは下を向いたまま呟いた。「ねえ、1万円ってどういうことなの?」と。
やったと思う反面、煽りすぎたかもしれないとも感じた。お母さんはなおもうつむいたままだ。いつもの天然さが消えている。表情が見えないから不気味さが際立っている。様子がおかしい。万理恵これはマズイぞと心が囁く。
戸惑いうろたえる私に「こたえなさい」とお母さんがたたみかけてくる。「どういうことかきちんと説明しなさい」と顔を上げる。はじめて見る目の色だった。いつものぼんやりさが掻き消えている。黒く重い。そして強く鋭い。私は戦慄した。モズに串刺しされたヤモリみたいに動けない。眼差しに貫かれて身動きできないのだ。
見くびっていた。甘く見ていた。癒しのヴェールにくるまれているのは知っていたが、その正体を見誤っていた。うさん臭い勇者っぽいあのお父さんの庇護のもとで生きるか弱い女性だと偏見していた。私と同じだと思いこんでいた。しかしちがう。あの眼差し。あの口調。あの憤り。あれは本物だ。
私は無言を貫くよりなかった。まさに「身から出たさび」だ。私はブリキ細工の錆びた人形だった。手足が軋んでうごけない。うごいてミシミシ音を立てるとお母さんの怒りを増長させる気がした。「うごくとヤラレルぞ」そう感じた。
横暴で無敵なお父さんの光のヴェールをはぎとってやるはずが、完全に計画が狂った。勇者なんかどうでもよかった。強いが勇者も所詮は人間。しかし神はどうだ。強い弱いを超越する。すべての創造主だ。私は神の逆鱗にふれてしまったかもしれなかった。
「今日は学校を休みなさい。学校へは私が連絡します。夕方お父さんが帰ったら話します。そのとき説明できるようにしておきなさい。私たちに不満があるなら言いなさい。言いたいことも言わずに陰から嫌な目でお父さんを見るのはやめなさい。万理恵は勘ちがいしています。親も子も対等だし人間はみんな対等です。でも意見を言わない人間はべつです。意見があっても伝えようとしなければ伝わりません。伝えようとしない意見はないのと同じです。言い返されるかもしれないし報復を受けるかもしれません。それが怖いなら言わなければいいんです。目をつむればいいんです。耳をふさいで目をつむればそれですみます。なにもしゃべらなければいいんです。変えようとするかどうかは人それぞれの判断です。でも正しいと信じることを伝えようともしないで陰でこそこそだれかをなにかを批判するのは卑怯者のすることです。お母さんはそういうの嫌いです。そういう人を心の底から軽蔑します」
ぐうの音も出なかった。仰るとおりだった。私は卑怯者だ。目も耳もふさぐくせに、口だけは達者な愚かな人間。でもどうしてこんなにもお父さんに反発してしまうのかじぶんでもわからない。聞かないで見ないですむならそうしたいけど、家族だから毎日かならず会う。声が聞こえるし、すがたが見えてしまう。避けようがない。
たぶんお母さんは見抜いている。私が嘘を言っていることを。私はおじさんと○○○したことなんてない。というか男子と○○○したことがない。とうぜんお金などもらっていない。すべて知ってのうえでのお言葉なのだ。あのお父さんの妻だから裏があると感じてきたが、さすがだ。
凍りついた顔つきで家事をおえるとお母さんはパートの仕事にでかけていった。お父さんの収入だけでじゅうぶんすぎるはずなのに近所のスーパーで働いているのだ。私が生まれるまえはお父さんと同じ会社ではたらいていたらしいから、できる女性なのだろう。
私はベッドに寝転んで考えた。なぜお父さんは「エモい」と言う表現を否定するのか。なぜ私は反発するのか。なぜお母さんは怒るのか。もしかしたら「エモい」表現なんてどうでもいいのかもしれない。
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