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ある日、じっさまは昼食を運んできた縄次に言った。
「縄次、もう老い先短いじじいに構わんでええ。お前はもっと自分に時間を割きぃ」
「じゅうぶん割いてるよ。ちゃんと海で魚も捕ってるだろう」
「それじゃ、お前の一日はおれの世話と素潜りだけじゃないか」
「他にもあるさ。サヨさんに挨拶をしたり、よっぺいに釣果を聞いたり……」
「ああもう、おれが言いたいのはそういうことじゃない」
指折り数える縄次の言葉を、じっさまは手をぶんぶんと振って遮った。
「分かってるさ。俺はじゅうぶん人生を楽しんでるよ。人間欲を出しすぎると駄目だって言ったのは、じっさまだろ?」
「ふん」
じっさまは目を細めて唇を尖らせた。嬉しくて照れている時は、いつも決まってこの顔になるのだ。縄次はそれを見てくすくすと笑った。
「お前の気持ちは嬉しいけどよ……そろそろ好い人のひとりやふたり、いるんじゃねえのか?」
「またその話か。俺はまだそんな余裕なんてないんだ。一人前の海の男になれるまでは、そんな甘酸っぱいもんはできない」
縄次に恋心を抱くむすめは多かったが、欲を断って真剣に海へと向き合う彼の邪魔をしてはならないという暗黙の了解ができていた。
ただ、それはむすめたちの勘違いだった。縄次はじっさまと暮らしていたので、女体というものに慣れておらず、ひどくうぶだったのだ。子供年寄りならいい、だが、自分と同世代の女というものはさっぱり分からない。いい匂いがして、やわっこくて、こう胸の奥がぞわぞわとする。むすめたちと話すよりも、魚と泳ぐ方がよほど気が楽だった。
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