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第1話 老人と海
市立図書館でアルバイトを始めてちょうど十日。この図書館でリーダー的立場の久美さんは、世間知らずの私のことを信頼して、お盆休み前の蔵書整理を手伝わせてくれることになった。
久美さんは若いのに、図書館の書架を隅から隅まで記憶している。私もこんな風になれたら幸せ。『美女と野獣』のベルみたいに本に囲まれて暮らせたら……。そういえば、久美さんはリアルベルみたい。綺麗だし、知的だし。きっとすごくいい家庭に育ったんだろうなって私は思ってた。
その久美さんから、アメリカ文学の書架からヘミングウェイの『老人と海』を持ってくるように頼まれた。手に取ったとき、その本はもう崩れそうなほどボロボロになっていた。私はそっと布に包んで壊さないように運んでいく。久美さんは、その年季の入った本と入れ替えるために、けっして新しくはないけれど、とても大切に扱われていたことがよくわかる文庫本にラベルとバーコードを貼り終えていた。
「早苗さん……ごめんなさい、山下さん。このバーコードをスキャンして」
「早苗でいいですよ。私も久美さんって呼ばせてもらってるし」と私は言った。
今は二人きりなんだから、久美さん、早苗さんで良いような気がする。
「この本ね、『老人と久美』って冗談で言ってたの。大切な人から贈ってもらった宝物」
データベースに登録したばかりの『老人と海』を手に持って、久美さんは少し寂しそうに笑った。
「えっ!? そんな大事な本を寄贈しちゃっていいんですか?」
「夫がこの図書館の館長だったのは、あなたにも話したわよね」
「名誉館長ですよね」
「それは退職してパートタイマーになったあと。これは彼が定年で一度退いて嘱託で勤務していたとき、館長に復帰する直前に中学生だった私にくれた本なの。だからきっと……ううん、絶対に喜んでくれるはず」
久美さんは力強い笑顔を見せた。
「それにしても、老人と久美って親父ギャグですよね」と、私は余計なツッコミを入れてしまった。
「親父ギャグと言うよりお爺ギャグね」と久美さんは本を見つめながら言う。「夫は娘が生まれた年に亡くなったけど、その時七十だったから。この本をくれたときは……六十三かな? 私とちょうど五十歳違うから」
私は頭がパニックになった。五十歳違う? いったいどういうこと!? 中学生と六十三歳って? それじゃ犯罪でしょ?
この間、お昼ご飯一緒に食べたときに、二年遅れで短大に行って資格取ったって聞いてビックリしたけど、美優ちゃん産んでから受験して、子育てしながら学校に通ったって言うから、旦那さんの話を聞くまでは、初めからシングルマザーだったのかなって思ってた。あの可愛いらしい美優ちゃんのお父さんがお爺さんだったなんて想像を絶する衝撃だし、私と七つか八つしか変わらないのに、旦那さんが私のお祖父ちゃんより年上だなんて……。
「早苗さんは就職どうするの?」
久美さんは突然話題を変えた。
「ほんとはここで働きたいんです。でも公務員試験受けなきゃならないし……」
「今年配属されて来た子はあんまり本が好きじゃなかったから、結局三か月で異動になっちゃった。図書館希望してる人沢山いたから、勿体ないなぁって思うけど、今年は市の新入職員に図書館司書が一人もいなかったのね」
それで、夏の期間だけアルバイト募集をしたってことか……って思った。でも、そんなこと話してる場合じゃない。私は勇気を振り絞って久美さんにお願いした。
「久美さん、よかったらその……旦那さんのこと、私に話してくれませんか?」
「気になる?」
「そりゃもう。気になって気になって、今晩きっと眠れません」
久美さんは笑いながら、さっき運んできたばかりのボロボロの『老人と海』を手に取ると、ぽつりと漏らした。
「中一のとき、この本を万引きしようとしたの」
「えっ!?」
私は絶句した。なんと言ったら良いのか迷っているうちに、久美さんが助け船を出してくれた。
「この先は仕事が終わってからゆっくりね。もし良かったら今晩家に来る?」
なんと私を家に招待してくれたのだ。
「はい! もちろん」と即答した私はなんとも遠慮のない子だ。自分でも呆れてしまう。
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