第10話 初恋(1)

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第10話 初恋(1)

 次雄は、庄内平野で稲作を生業とする山形の自小作農家の次男として生を受けた。一九四一年十二月八日、日本がパールハーバーを奇襲して太平洋戦争に突入した日のことだった。  吉村家の長男は七歳上の毅雄(たけお)。その一つ下の長女静江は長野に嫁いだ。姉と次雄の歳が六つも違うのは、長女を出産した母親の産後の肥立ちが悪く、不幸にも命を落としてしまったためだ。その五年後に父親の和雄は再婚し、次雄に続いて次女の光恵と三女の好恵が生まれている。  毅雄は家を継ぐために実家で働く一方で、次雄は中学を卒業するとすぐに、家計を助けるために出稼ぎ労働者のように日雇いの肉体労働を求めて上京した。農繁期だけ実家に帰る必要があったため、一般企業への就職は適わず、同じ列車に乗って集団就職で東京を目指す同級生たちが、次雄にはとても眩しく見えた。  次雄は、小学生の頃から勉強だけは人に負けなかったが、大学は遠い世界だった。上京と同時に通信制の高校を受講し始めたが、宿とさえ呼べない安宿が密集することから「ドヤ街」と差別的に呼ばれた山谷で寝泊まりしていた次雄には、勉強は疎か読書する場所さえなかった。夜は拾った乾電池を懐中電灯に入れて本を読み、悪天候で仕事が流れた日は図書館で自習した。しかし、当時の山谷は日本のスラム街そのもので、周囲の人々が覚醒剤に溺れたり、血を売って生活する姿を見るにつけ、早くここを脱出しなければと思うようになった。  秋の稲刈りが終わり、再び上京する上り列車の中で、次雄は隣の席の初老の男性からアパートの管理人を引き受けてもらえないかと声を掛けられた。都内に独身者向けアパートを五棟経営するその男性は、あどけなさが残る頬の赤い少年が真剣にカントやニーチェの哲学書を読み耽る姿に感心して、この子なら任せられると直感してのことだった。しかし、農繁期には長く実家に帰らなければならない次雄は、紳士の申し出に応じることが出来ず、連絡先だけを書き留めて上野駅で別れた。  転機はすぐに訪れた。暮れに実家に帰った次雄を待っていたのは、父親との別れだった。長年胸を患っていた父親の和雄が大晦日に他界し、喪に服すことになった吉村家では、初七日を過ぎてすぐに家族会議が開かれた。一家の主となった毅雄は、以前から土地買収に乗り出していた企業に、工場用地として農地を売却することを決めていた。異議を唱えたのは、長野から子供を連れて実家に帰っていた長女一人。反対していた父親が亡くなった吉村家では、家長となった毅雄に異議を唱える者はいなかった。 「次雄、おめはどうする?」と兄に聞かれ、「農繁期に帰る必要がないなら、アパートの管理人をしながら大学を目指したい」と答えた。  言葉通り、次雄はアパートの管理人としての仕事の傍ら通信制の高校で学び、自由に本が読める環境で哲学にのめり込んだ。休みの日には複数の図書館を梯子して貸出枠一杯に本を借り、風呂敷に包んで大事そうに抱えながら帰宅する。  次雄は、十七歳でハイデッガーやヤスパースに、その後はサルトルに深く影響を受けた。しかし、太平洋戦争に雪崩れ込んでいった日本の狂気を二度と繰り返してはならないと考えていた次雄は、一つの考え方に固執することを嫌い、例えばカミュとサルトルを交互に読むように、いつも中立的な思想に自分の信念を置くように努めていた。  当時の通信制高校は、ようやく高校卒業の資格を得られるようになったものの、卒業までには四年を要した。学費の負担が少ない国立大学への進学を条件に、東京大学を第一志望に受験に臨んだ次雄だったが、哲学に熱中してしまったために理数系の点数が合格点に一歩及ばず、奨学金を得て早稲田大学の文学部に入学した。  若い頃から農作業に精を出し、上京してからも汗臭い肉体労働やドヤ街まで経験していた次雄にとって、都の西北に位置するキャンパスではあらゆる物が輝いて見えた。東北の農村出身で口下手な次雄にとって、学生達は誰もが垢抜けて立派に見えた。しかしそれも最初の内だけで、何人かの同級生と語り合ううちに、だんだんと彼ら彼女らの甘さが見えてきた。  なかなか親友と呼べるような友にも出会えない孤独感を感じ始めた頃のことだった。  次雄はいつも講義には余裕を持って席に着く。ある日のこと、私鉄のストで講師の到着が遅れ、講義が三十分遅れるという案内が教室に響いた。  殆どの学生が席を立ったが、次雄は時間を惜しんで、読みかけの本を鞄から取り出した。それは、数年前から学生達に流行していたコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』。図書館ではいつも貸出中で、仕方なく食費を何食分か削って古書店で入手したものだった。  その時、立ち上がろうとした隣の席——と言っても一人分空いていたが——の女子学生が「私、松岡早苗です。初めてお話ししますけど」と突然次雄に声を掛けてきた。目が合った途端に次雄の息は止まった。なんて美しい瞳だろう、と心の中で呟いた。 「吉村次雄です。東北出身だから口下手で……」と次雄は挨拶を返す。 「東北のどちらですか? 私の母は秋田出身なんです」と言う早苗に、次雄は「山形です」と答えるのがやっとだった。 「その本、以前に書店で買おうと思ってたんです。でも、一緒にいた人から『中学しか出てない若者が書いた取るに足りない与太話だ』って言われてしまって。でも、それからずっと気になってるんです。まだ全部はお読みになってらっしゃらないと思いますけど、いかがですか?」と丁寧な口調で訊ねられ、次雄は本を早苗に預けた。 「もし……読むんだったら、お貸ししましょうか?」と、興味深そうにページをめくる早苗に、恐る恐る提案した。 「ダメです。まだ読み終わってないんでしょ? 私、ちゃんと自分で買いますから」と早苗は笑いながら答え、その笑顔の愛らしさに次雄は言葉を失った。  早苗の母方の祖父はユダヤ系(アシュケナジム)の白系ロシア人だという。道理で瞳の色が明るいはずだった。次雄は、自分の生い立ちと、アパートの管理人をしながら大学に通っている勤労学生であることを打ち明けた。携帯電話どころか、学生が自由に使える電話もない時代だったから、互いの連絡先さえ知らぬまま二人は別れた。  ある日、それまで距離を置いていた学生運動の集会が開かれていた講堂の前を通りかかったとき、「サルトル」とか「実存主義」という言葉が次雄の耳に飛び込んできた。興味を抱いて恐る恐る講堂を覗いてみると、入り口で何枚かのビラを渡された。演説に聴き入る人は疎らで、前の席に座るよう促されたが、次雄は後ろの方で立ったまま話を聞き始めた。演説は期待外れだった。熱弁をふるっていたのは安保闘争を闘った学生リーダーの一人というが、次雄にとってその内容はとても幼稚に思えた。そのうえ、自分の語りに陶酔しているとしか見えないその姿は、映画で観たヒトラーまで想起させた。次雄は失望を隠せず、講堂を後にしようとした時にビラを配っていた学生から「ノンポリ野郎」と罵られる。そこを後ろにいた早苗のひと言に助けられたのだった。 「ありがとう。助かりました」と次雄は頭を下げ、正直に告げる。「でも、プロレタリアートにはほど遠いほど楽な仕事ですし、本当は今日の仕事も夜遅くからなんです」 「すみません、余計なこと言っちゃって」と早苗は頭を下げた。「でも、お時間があってよかった。もしよろしかったら、このあとゆっくりお話ししませんか? 私、あれから『アウトサイダー』読んだんです」  早苗に誘われて、次雄は硬直した。  女性と二人きりで喫茶店に入るのは、次雄にとって生まれて初めての経験だった。初めは早苗の話を聞く一方だったが、『アウトサイダー』の話題に移った途端に次雄のスイッチが入った。 「僕はこの本を読んで、自分の批判精神が間違ってなかったと自信を持ちました。ただ、コリン・ウィルソンは神への思いが捨てきれずに、まだ迷いの中でこれを書いたような気がします。二十世紀はもはや神の時代ではないことは間違いありません。しかし、サルトルはコミュニズムに固執しすぎていますし、そう言う意味では『新実存主義』というのはこれからの私たちが目指すべき道のように思います。それでも、ウィルソンのそれは少し楽観的すぎるように思うんです」 「でも、私はウィルソンの楽観主義って嫌いじゃないです。アウトサイダーがはじき出されるような社会は、ジョージ・オーウェルの『1984』みたいになってしまうでしょ?」と早苗に言われて、次雄は『アウトサイダー』への批判の手を弛めることにした。 「それは僕も同感。サルトルもそうですが、一つの思想に固執するのは危険だって思ってました。戦前の日本もそうだったし、ナチスドイツのファシズムにしてもそう。共産主義革命も、ブルジョワジーを倒すことが成し遂げられたとき、プロレタリアートの中から新たな支配者が生まれてくるんじゃないかって考えると、僕は怖くなるんです。例えばスターリンのように、指導者が民衆から逸脱した強権支配に陥る可能性を否定できない……」 「良かった。初めて私と同じ考えの人に会った」と早苗は笑った。「もし彼ら——彼らって学生運動のリーダー達ですけど——彼らが言うようにプロレタリアの世界を作っても、共有だけじゃ歓びになんかならないですよね。だって、みんな持ってる個性が違うんだから。共産主義革命から逃れて来た白系ロシアでユダヤ人の血を引く私は、どうしても彼らの考え方に百パーセント同意できないんです」  次雄と早苗は意気投合したが、二人は会計の時に少し揉めた。次雄も早苗も互いに二人分を支払おうとしたためだった。 「ここは私が払います。私がお誘いしたので」 「とんでもない。僕の方が一つ年上だし、あなたに払わせるわけにはいかない」 「日本男児たるもの女子供の世話になるわけにはいかぬって感じですか? そういう考え方はもう古いです」と早苗に言われて、次雄はカチンときたが、結局割り勘に落ち着いた。  喫茶店に映画の割引券が置いてあった。『草原の脱走』というフランス映画のものだったが、二人はそれを貰って帰り、次の日曜日に映画を観に行く約束をした。
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