第4話 万引き

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第4話 万引き

 美優ちゃんが部屋に戻って安心したか、久美さんの呑むペースが少し早くなってきた。 「中学に上がるまでは割と優等生だったのよ。小六のときは学級委員だったし。中一のときは図書委員に選ばれたの。夏休み明けに、校内の読書マラソンの感想文を職員室に届けに行ったとき、国語の先生の机の上に英語の本が置いてあったの。英語の先生ならわかるけど、国語の先生……不思議でしょ? タイトルに"The Old Man and the Sea"ってあったから、老人と海だってすぐわかった。先生が戻ってきたから、面白いですか? って聞いてみたの。そしたら、『この本には何種類か翻訳があるんだよ。それで、実際に原文はどう書いてあるのか気になってね。翻訳本は図書館にあるから読んでみたら?』って」 「いよいよ『老人と海』とのご対面ですね」 「それが学校の図書館にはなかったの。調べてみたら、文庫本も『世界文学全集』も、貸し出されたまましばらく戻ってなかった。両方とも同じ二年生の男の子が借りてたんだけど、ゴールデンウィーク以来ずっと学校に来てなかった」  そこで出会いがあったら、話は違う展開になったかもしれない。『老人と海』を二冊とも借りたまま引きこもってしまった中二の男の子のことも少し気になったけれど、久美さんの眼中にその男子のことはなかったみたい。 「それで、土曜日に市立図書館に行ったわけ」 「久美さんと図書館の出会いですね」 「初めて行ったわけじゃなかったけどね。時間はたっぷりあったから、最初は図書館で読みきるつもりだったの。でも、私のことをずーっと変な目で見ている男子がいて、すごく気味悪くなって……」  わかるわかる! だって、その頃の久美さんはきっと美少女だったに違いないから。でも女子って、見かけだけで一方的に欲望の対象にされる。ほんとに世の中不公平だ。 「借りて行こうかとも思ったけど、なんだか借りるのも恥ずかしくなっちゃって。だって『老人と海』じゃない?」と久美さんは言った。  私は少し不思議に思った。『チャタレー夫人の恋人』ならわかるけど、『老人と海』のどこが恥ずかしいんだろう? 「書棚に戻すつもりで席を立ったの。でも、出来心っていうのかな? 書棚に戻しかけたときに無意識のうちにすっと自分のバッグの中に入れちゃった。変な万引きでしょ。私、なんでこんなことしちゃったんだろう……って思いながら、ただただ心臓がドキドキして。捕まるのは怖いし、とにかく早く立ち去らなくちゃって思って、誰にも気づかれないようにそーっと出て行こうとしたら、後ろから声かけられたの。『君、名前は?』って」 「えっ!? ストーカー?」 「じゃないの。『鞄の中に本を隠しましたね?』って、すごーく低い声で後ろから言われて、そのときは背筋がぞーっとしたわ。凍り付いたようにビクッと立ち止まって、身体が震えだした。悪いことしたって見え見えよね。観念してゆっくり振り向いたら、さっきまでカウンターの中にいた白髪頭のオジさんが立ってた。それが次雄さん」と、ボロボロになった文庫本を手に久美さんは続ける。「この本をバッグから出しながら『持田久美です』って答えた」 「それが未来の旦那さんとの出会いだったわけですか」 「そうね。その時は想像も出来なかったけど……」  久美さんはシンプルだけど素敵なデザインの仏壇に視線を向けた。そこにはアイボリーの明るい額に納められた次雄さんの遺影があった。アロハシャツを着て、ちょっとはにかんだような笑顔でこちらを見ている。 「彼に『持田さんは中学生かな?』って聞かれたから、正直に『はい。一中の一年二組です』って答えたの。そしたら、『ここで待ってなさい』って、事務室の椅子に座らされた。学校名だけじゃなく、何年何組まで言っちゃったから,逃げようがないでしょ? 彼は、出かける支度をしながら、他の職員に『二十分ほど外出させてください。私が戻って来るまであの子を見ててくれますか?』って頼んでた。その時の私はもう借りてきた猫そのもの。あの人はきっと警察を連れてくるんだと思ったらもう……」  久美さんはグラスを口に運ぶ。 「でも、十五分くらいで戻って来たの。手に持っていた書店の袋から『老人と海』の文庫本を取り出すと、『これをあなたにあげるから、ちゃんと読みなさい』って言われた」  久美さんの笑顔はすごく幸せそうだった。 「彼は一緒に真新しいノートを渡してくれた。『この一ページ目に、本の題名と作者と読んだ日付。それに三行で感想を書いて、来週また持っていらっしゃい。それが宿題だ』って言われた。私が泣きそうになってると、『僕は吉村次雄だ。この図書館で働いてる。本のことで何か困ったことがあったら、いつでもここにいらっしゃい。来週また土曜日に新しい本を君に用意しておくから、宿題を忘れないようにね』って。『どうして私にそんなこと……』って私は聞いたの」と久美さんは微笑んだ。「彼はこう答えた。『君の心は枯れかけてる。本は心の栄養になるからね』って」そう言うと、久美さんは声にならない溜息をすっと漏らした。「あの人に心の奥底まで見抜かれた。なんで私の心が枯れかけてるって解ったんだろう? って不思議に思った。その頃、両親は離婚寸前。父親は私とは口もきかずに、あからさまに妹を可愛がるの。母はそんな夫の態度に見て見ぬ振り。三歳下の妹だけが私のことを心配して『お姉ちゃん、大丈夫?』って声かけてくれた。そんなことを思い出したら、私……彼の前で泣いてしまった」  久美さんがそんな家庭に育ったなんて、昨日までは想像もできなかった。
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